詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(9)

2006-05-02 12:26:59 | 詩集
 「撚糸島」という詩が『われアルカディアにもあり』に2篇ある、と私は長い間思い込んでいたが、一篇は「断崖」という作品であり、その冒頭に「撚糸島」が出てくることを『全詩集』で確認した。「断崖」は私には少し奇妙に感じられるが、それよりさらに「撚糸島」が奇妙に感じられる。奇妙という印象が残っていたために、同じタイトルと思い込んだらしい。
 奇妙というのは書き出しである。平易だ。その平易さが不思議に印象に残る。

冒険の終りには
野望とその失敗を讃えよう
静かな青い海のなかの視線の混乱を
いまは美と認定して
おさらばしよう
証言の岩はそのように語る

 2行目の「その」は「直列の詩学」につながる「その」ではあるが緊迫感が弱い。意味をかたちづくっている敗北の美学というのもありきたりのセンチメンタルに感じられる。思わず読み返さざるをえない強引なことばがない。渋沢の詩の書き出しにしては珍しいことだと思う。
 つづく3行も平易だ。いかにも敗北にふさわしい(と思われる)風景が選択されている。

撚糸島(よりいとじま)の
とある寒村の
古びた梯子の一段ごとに鳴っている風

 3行に分けて書かれていなければ違った印象があるかもしれない。3行に分断されたために「直列の詩学」がどこか遠くへ行ってしまっている。最初の6行と、この3行は、むしろ「並列の詩学」と呼んだ方がいいような感じがする。先行する行の世界を、そのわきから補足する情景。抒情を押し広げ、うけとめる背景としての3行という印象がある。
 ただ、この作品は、そのあと急激に変化する。

笑っている黒鴨たちの
むなぐろたち 渡り鳥の
はるかな群は記憶の驟雨をついて走り去り
その闇のおもてに奇跡的に生みだされた巨大な燈台の
頂きから投身する数多くの瞳孔をわたしは見た
どこにも収斂点を持たない数多くの光の破片をわたしは見た

 「その闇のおもてに」の「その」も「直列の詩学」につながる「その」だが、ここで「直列の詩学」の運動がはじまった瞬間から、視線が突然転換する。「海」とか「渡り鳥」という自然、はっきりと肉眼で見えるものから、肉眼では見えないもの(普通の人の肉眼では見えないもの)を描く。「投身する数多くの瞳孔」「どこにも収斂点を持たない数多くの光の破片」。それは渋沢が直接見たものではないだろう。肉眼が直接見ることができるのは投身する人間の全体の姿である。ときに、そのひとりと目が合ったとしてもそれは限定的なことであって、「数多くの」と言えるようなことは現実にはありえない。しかし、渋沢は「見た」と書く。
 たしかに実際に渋沢は見たのだろう。肉眼というより、直列の詩学によってそだてられた精神の肉眼、感情の肉眼によって見たのだろう。
 「直列の詩学」は精神、感情の運動を突き動かす方法でもある。

 この「撚糸島」は2連構成になっている。これも珍しいことである。そして、その2連は、やはり直列ではなく並列という印象を残す。1連目を2連目が繰り返し、1連目で書き落としたものを補足しているという印象が残る。これも渋沢の詩のなかでは奇妙な感じがする。

さえぎられ
翻弄され
奔騰する
撚糸島の
白波の暗線は
梯子の風に追いたてられて
羽蟻の舞 いや花々のあざやかな彼岸を描く
酔え あらゆる血と詩と塩の多くの穴よ
証言の岩はそのように語る
けれども どうしてこうも
雪崩れてゆかなければならないのかを岩は言わず
岩は言わず いつまでもいつまでもいつまでも
釣りあげられる紋切型 悶悶たる稲妻の嶺の
真空のなかの奇怪な惑乱を貫いて 奇怪な無為を貫いて
堕ちてゆく無数の漏斗状の巨大な穴をわたしは見た

 2連目は後半が特徴的だ。「岩は言わず いつまでもいつまでもいつまでも」は前の行の末尾の「岩は言わず」を繰り返し、「いつまでも」を繰り返す。何かむりやり助走をつけて飛躍しようとあがいている感じがする。たぶん、それまでの並列から直列へとことばを切り替えるためにあがいているのだと思う。その助走があってはじめて「悶悶たる稲妻の嶺の」以下の直列の詩学がはじまる。肉眼では見えないもの、精神の目、感情の目にしか見えないものがとらえられる。
 それにしても「悶悶たる稲妻の嶺の」は、どのことばにかかることばだろうか。どうとでも読める。単純に読めば行渡りして「真空のなかの奇怪な惑乱」であるけれど、では「真空」にかかるのか「奇怪な惑乱」にかかるのかと考えるとわからなくなる。おそらく、一気にそれを、それこそ貫いて全体にかかることばであろう。

 この詩のなかには「並列の詩学」と「直列の詩学」が併存している。併存しながら、最終的に渋沢が「直列の詩学」を選びとっていることがわかる詩である。



 私は詩人の来歴には興味がないので当てずっぽうで書くのだが、この作品が奇妙に感じる理由は「撚糸島」というタイトルにもある。「いとよりじま」と渋沢は読ませているが、私には「島」が「塔」あるいは「党」に感じられる。「党」とはもちろん共産党である。この作品は共産党への決別宣言のようにも私には感じられる。
 別れであるからこそ、冒頭にセンチメンタルなものが混入したのではないかと思う。
 そしてそれを渾身の力でふりきっているのではないだろうか、と思う。
コメント
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