詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(20)

2006-05-25 11:37:39 | 詩集

 『啼鳥四季』(1991)。「五月のキジバト」の書き出し。

壊れた朝
細々と流れる片割れの川 名残り川
流れてきたかたちのないものが
ひょいとかたちをなすあたりで
五月のキジバトが啼き 夜が明ける

 「かたちのないものが/(略)かたちをなす」。「無」から「生成」への動き描かれている。このとき「場」は定まっていない。生成があったとき、それが「場」になる。生成がないかぎり、それは「場」として認識されない。「ひょいとかたちをなすあたり」と渋沢は簡単に(?)書いているが、「なす」と「あたり」は絶対に切り離せない関係にある。
 「場」が成立して、時間がはじまる。「五月のキジバトが啼き 夜が明ける」。この行にも、深いおもしろさがある。キジバトの声は後に「スッポー ポーポーポー/アッ スッポー ポーポーポ」と描写されているが、音の変化はそのまま時間の経過を示す。
 存在の「生成」と「場」と「時間」が、ここでは切り離せない関係として把握されている。

 (キジバトの鳴き声は、私の耳には「デデッポッポー」と聞こえる。渋沢の表記しているようには聞こえない。これは育った土地の違い、その土地でつかわれている表現の違いかもしれないが、この違いから何かを語ることができれば「詩」の味はもっと深くなるに違いない。)



 「形のない球体」。このタイトルは言語矛盾だ。「球体」は球という形があるから球体というのだが、こうした言語矛盾にはなぜか私は引きつけられてしまう。ほんとうにいいたいことは、たぶん言語矛盾でしかあらわすことができない、と私は思う。自分が感じていること、それはいままで誰も語ったことがないものだとすれば、そこにはどうしてもいままでの表現ではありえなかったものが含まれる。矛盾したことを言わなければならない。矛盾のなかにこそ、思想(その人独自の思い)があるはずだ。あるいは、思想になろうとするもの、名付けられていないものがあるはずだ。
 この作品に「非在の場所」ということばが出てくる。書き出しの7行目だ。

さえ昼のものは昼に返し
夜のものは夜に返そう
そのくらいの分別はわたしにもある
けれど返したあとは徒手空拳
非在のものの声でも聞くよりほかはなく
あらためて昼夜混淆の巷に降りてくる
いや ここがすでに非在の場所 

 「非在のものの声」も言語矛盾だ。その「場」に「非在」なら、それが発する声も存在しない。声が存在するならものも存在する。しかし、こういう表現は日常的につかう。そのとき私たちは「場」を複数考えている。いま、ここには非在だ。しかし、ここではなく別の場に、それはいて、そこから声が聞こえる、ということなら実際にありうる。
 ここからがおもしろい。渋沢の「思想」があらわになってくる。
 非在のものの声を聞くために何をするか。「昼夜混淆の巷に降りてくる」。混淆は区別がつかない状態。混沌と同じだ。(区別がつかないということは「無」とも同じだ。)「非在のものの声」は昼と夜との区別が明確な場ではなく、昼と夜との区別がつかない場においてこそ存在する。だから渋沢はその場へ「降りて」ゆく。(「降りる」ということばにも注意をはらわなければならない。それは今と同じ地平にあるのではなく、いわば「地下」にあることを「おりる」ということばは指し示しているからだ。)
 しかし、この行為こそ、矛盾と呼ぶしかないものである。それまで渋沢は何をしていたかというと、昼のものは昼に返し、夜のものは夜に返すという仕事だ。昼夜混淆の場にいて、昼のものは昼に、夜のものは夜に分類するという仕事をしていたはずである。しかし、そうしてしまうと何もすることがない。何もできない。そんな場では何も生まれない。生成しない。だから、昼夜混淆へ、混沌へと帰ろうとする。
 だが、そんな場などない。「ここがすでに非在の場所」。
 混沌など、すでにない。すべては明確に分類されている。それが現代というものだ。

 しかし、それでも何かが残っている。何かしら、混沌と言うものが残っている。何も分類できず、どこに属すのかわからないものが残っている。渋沢は、そう感じる。肉体によって。この詩集で、渋沢は渋沢自身の肉体を発見している。

いや ここがすでに非在の場所
区別を言いたてるほうが無意味に近い と
してもなお脳髄の奥では盛んに騒ぎ立てている
おれを おれのこの肉の場所をどうしてくれる?
この血を この骨と筋(すじ)と細胞を
この生きた花をどうしてくれる?

 このとき「おれ」が「場」なのである。その「おれ」という肉体、肉体の「場」で実は生成がおこなわれる。

あらゆるものがここを通り過ぎていった
昼に日が昇ればその昇る日が
夜に風が吹けばその風が
このおれの場所を通り過ぎ
大なり小なり傷をつけていった
かすり傷でも数を重ねれば
溝になり 淵になり 奈落になり
いまでは形も知れぬその穴の
痛みに耐えてこうしているのだ

 「溝になり 淵になり 奈落になり」と3度繰り返される「なり」(なる)。肉体という場で生成がおこなわれる。それが「詩」である。


コメント
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