詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(15)

2006-05-11 15:06:39 | 詩集
 「夾竹桃の道」(『回廊』)の書き出しは渋沢の詩にしてはきわめてめずらしい。イメージではなく「意味」が前面に出てくる。

苦しい夏も
熱狂的な気晴らしも果てた
われわれの愛も詩法も
破れかぶれだとひとはいう
いいではないか その通りなんだから

 だが、これはほんとうに意味なんだろうか。意味ならば「熱狂的な気晴らし」が何を指すか明瞭でなければならない。「愛」「詩」が何を指すのか明瞭でなければならない。「苦しい夏」と「熱狂的な気晴らし」が「も」という並列に存在しなければ理由も明瞭でなくければならないし、「果てた」が「苦しい夏」「熱狂的な気晴らし」を主語とする動詞なのか、あるいは渋沢特有の行わたりがここに存在し、それが「愛」や「詩」を修飾することばなのかも明瞭でなければならない。しかし、何一つ明瞭ではない。何も説明されていない。
 これはイメージなのである。
 何も目指すものがない。ただ目の前に空白があるというイメージを言語に置き換えたものである。たまたま季節が夏だった。だから夏に向き合って、その夏の空白に向けて渋沢はことばを動かしている。放電している。
 「意味」がもし存在するとするなら、それはその後のことばのなかにこそある。

この季節とともにいまあまりにも身近に
突然に果て過ぎ去ろうとしているものたちがあり
いつのまにか忍び寄っていた
ひそかな翳りが
眼路いっぱいにひろがる気がする

 「気がする」が「意味」である。何かが「たちあがり」「翳りが/眼路いっぱいにひろがる」という「気がする」。明瞭なのは「気がする」ということだけである。「気がする」だから、もちろん対象は不明瞭である。
 あとは、その「気がする」というものを、ひたすら言語化する。イメージ化する。内在するエネルギーを外部へむけて放出する、放電する。
 「気がする」という「気」はそうやって明瞭になろうとするが、なかなかうまくいかない。だからこそ「気がする」というのだが、明瞭なものが「気」だけであることは、繰り返される「気」ということばが証明している。

逃れでてわびしい病院のそとの道を歩くと
紅い夾竹桃の花がいっそう不吉な気分を掻きたてる
ああその塀のあたりに
ひとはなんと気遠い時間を溜めているのだ

 ここに書かれた「気」(気分を含む)を2行目の「気晴らし」の「気」と結びつけて見直すと、その「気」が滞留したものであることが明瞭になる。目の前に「気」が滞留していて、何もできない。どこへも進むことはできない。直列の詩学ならば、内部に「気」を蓄積し、それを爆発させることで前進できるが、放電の詩学ではそうはいかない。放電するためには、空白が必要だ。無が必要だ。しかし、目の前にあるのは何もない空虚にみえながら、実は、あらゆるものが滞留した状況である。
 ほんとうに目の前にあるものが何もないのだったら、渋沢は、最初の5行を書かなくてもよかった。ところが目の前には「無」はない。「気」の滞留がある。

わたしにしてもこんなときこそ生の繁吹の
ほうにむかってどのようにか
力づよい一行を踏みだしたいと希うがうまくゆかず
打ち砕かれた前歴を通じて
べつの世界をあらためて分娩するはずのものは
みえない檻に〈監禁された監禁者〉よろしく
仕末におえぬ袋小路であえいでいる

 この「自画像」に「意味」がある。「意味」が動いている。「力づよい一行を踏みだしたいと希う」というのが、この時期の渋沢の姿だろう。直列の詩学は常に「力づよい一行」を生み出した。一歩一歩がエネルギーの爆発へむけて進んでいった。放電の詩学ではそうはいかない。
 一種のとまどいがここにある。それがそのまま言語となっている。
 放電の詩学を生きる渋沢は、この詩を再び「自画像」で締める。

あまりにもしずかな影を扱いかねて
気遠くあまりにもしずかな影を扱いかねて
わたしは吐いている
いつまでもただひたすら吐いている

 「あまりにもしずかな影を扱いかねて/気遠くあまりにもしずかな影を扱いかねて」に再び登場する「気遠く」。この2行は、その「気遠く」を強調するものであって、「あまりにもしずかな影」というのは修飾文である。(文法上は「気遠く」が修飾語であるけれど。)
 「気」の滞留。それを乗り越えてあふれるまで、ただひたすら、ことばを吐く、放電する。これが渋沢の放電の詩学である。
コメント
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