詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジョン・ゲイティンズ監督「夢駆ける馬ドリーマー」

2006-05-31 22:53:38 | 映画
監督 ジョン・ゲイティンズ 出演 ダコタ・ファニング、カート・ラッセル、馬

 少女の夢、つまり純粋な夢が家族を再生させる、傷ついた馬を再生させる、挫折した騎手をさせる……。アメリカン・ドリームのひとつがここにある、といえばいえるのだろう。しかし、少女の純粋さに頼りすぎていて、ぜんぜんおもしろくない。美しいシーンがない。思いがけない人間の行動がない。
 純粋な愛は軌跡さえ起こさせるすばらしいもの、というのは危険な思想である。そこには肉体が欠落している。
 その肉体の欠如をもっとも端的に語っているのが少女の作文のシーン。少女が書いた作文を父親が朗読する。少女のことばを自分の声で追体験する。そうすることで少女の夢を知り、自分の夢も知る。いいシーンといえばいいシーンだけれど、映画になっていない。ことばで説明するだけで、これでは小説である。いくらカート・ラッセルが感無量になる顔をしてみせてもだめである。「詩」である部分が、ことばで築き上げられていくとき、映画は死んでいく。
 時間の経過もこの映画では重要なテーマであるはずだが、この処理も映画とはほど遠い。馬が骨折し、怪我が治り、立つ、歩く、走る、競走するというのは大変な時間がかかるはずである。その時間の経過が肉体化されていない。表情がその場限りなのである。単純明解に、喜怒哀楽をあらわしすぎる。(エリザベス・シューがかろうじて、時間を演技していたが。)
 ダコタ・ファニングにしても同じである。成長期で乳歯が生えかわる時期なのか、それともけがでもして歯が欠けたのかわからないが、最初から最後まで上の右の門歯が欠けたままである。こんなばかなことはないだろう。どうでもいいようであって、どうでもよくない。この映画には、ダコタ・ファニングの門歯のように、「細部」が欠けている。
 せっかく広い牧場を舞台に撮影しているのだから、せめて牧場の変化で、季節の移り変わりを感じさせない。芝の緑、木々の緑も1年ではかわるはずである。土の色だって変わるはずである。
 細部が切り捨てられ、「詩」が生き残る場がなかった映画である。
 唯一の例外は馬の目である。馬がダコタ・ファニングを見つめるときの愛情あふれる色がいい。生きて、誰かに会えた、愛し合えるものに会えた喜びが、つまり「詩」がそこにあった。
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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(23)

2006-05-31 15:23:30 | 詩集
 「渦巻の花」(『啼鳥四季』)に不思議な行が出てくる。

沼まむし 雛鳥 聖人 琥珀
早鐘 万聖説 心配性 長枕
フランス語ではこれらはみな同じ韻の語だ

 これが事実であるかどうか私は知らない。不思議に思うのは、日本語で詩を書きながら、「フランス語ではこれらはみな同じ韻の語だ」と書くことである。だれにむけて、こうしたことばを渋沢は書いているのだろうか。フランス語を理解できる日本人に対してであろうか。もしそうであるなら、それはフランス語で書かれるべきことがらだろう。最初からフランス語で書けばすむことである。
 渋沢は渋沢自信にむけて、この行を書いたのだろう。

 詩そのものを渋沢はいつも自分にむけて書いているのかもしれない。あるいは詩を外国語として書いているのかもしれない。新しい言語として詩を書いているのかもしれない。伝統回帰に見える『啼鳥四季』というタイトルも、実は伝統回帰ではなく、古い日本語を外国語として見ているのかもしれない。伝統的な視線を外国人の視線として把握し、それを融合させようとしているのかもしれない。

 このことに関連するか関連しないかよくわからないが……。「現代詩手帖」5月号で、野村喜和夫が発言していることが、私には少し気にかかる。

 フローラというか、植物の名前、形態にすごく微細な眼差しを向けていく。(略)大地に根差した不思議な、農民的といったら変ですが、そういうものが何かあるんです。

 私は西脇順三郎の描く植物には肉体を感じる。音がそのまま植物と結びつき、どうじに体のなかへ入ってくる感じがする。「すかんぽ」と書いてあれば、その茎をかじったことまでまざまざとよみがえる。まったく知らない名前であっても、道端の風景が浮かび、風が吹き、草が揺れる。葉っぱの上のほこりが白く輝く。熱さのなかでだらしなく垂れる葉っぱも見えてくる。「どくだみ」という濁った音さえ、便所の脇の不可思議な湿気とともに、農家の人のあたたかい声となって響いてくる。
 それに反して、渋沢の植物は、私にはどうしてもなじめない。渋沢が手で植物に触れているという感じがしない。目で見ているという感じすらしない。ただ知識としてそれをしっているという感じしかしない。
 三島由紀夫がほんものの松を見て「これが松ですか」と言ったというのは事実か作り話かしらないが、何か似た感じがする。知識としての植物、図鑑のなかでの植物を、渋沢は「外国語」として詩に持ち込んでいるのではないのだろうか。
 「外国語」を読み「日本語」に翻訳する。そのときの精神のうごき。本語を探すときの精神の動き。その動きに、渋沢は「詩」を感じるのかもしれない。

 自分の知らないもの、知らなかったこと(たとえば「宇宙のひも理論」)に触れたとき、それを自分のわかることばとして肉体のなかに呼び込もうとする。イメージを総動員する。肉体の運動も総動員する。そのときの精神的・肉体的興奮。そこにたしかに「詩」はあると思う。
 渋沢の詩は現実というよりも、そうした抽象的なもの、あるいは「頭脳的」なもの、かもしれない。「頭脳」のなかでなら、

沼まむし 雛鳥 聖人 琥珀
早鐘 万聖説 心配性 長枕
フランス語ではこれらはみな同じ韻の語だ

ということは起きる。しかし、肉体のなか、手や舌のなかではそういうことは起きない。同じ韻を探せない。
 補足すれば、たとえば「すかんぽ」のなかに「酢」がある、と言えば、すかんぽをかじったことのある人なら舌の記憶としてそれを理解できるだろう。「すかんぽと筋(すじ)は頭韻を踏む」と言えば、単に耳の記憶だけではなく、かじるためにすかんぽを折ったときのことまで思い出すだろう。
 西脇の植物には、そういう肉体の記憶を誘う響きがある。日本語の音の深さがある。渋沢の植物には、野村が「フローラ」と呼ぶしかなかったような、「外国語」の響きしかない。「頭脳的」な響きしかない。


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