詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

映画「ブロークン・フラワーズ」

2006-05-01 23:25:54 | 詩集
ジム・ジャームッシュ監督 ビル・マーレイ主演

 ある日、男に手紙が届く。昔の恋人からだ。「19歳の息子がいる」。その恋人は誰なのか。それを求めて男は過去の恋人を訪ねる。そんなストーリー。
 まずタイトルがあらわれるまでがすばらしい。ピンクの便箋、ピンクの封筒。投函され、集められ、スタンプを押され、仕分けられる。一連の流れのなかで、いつもピンクの封筒(少し規格からはずれているのか、他の封筒よりはみだしている)がきちんと映像化される。それは映画だからあたりまえといえばあたりまえなのだが、その丁寧さのなかに、「これはあくまで映画ですよ」という「おことわり」の感じが残っている。あ、手作りってこういうことだなあ、と思う。ここまでで、もう100 点満点の映画。あとは付録です。付録。
 そして、あたりまえのことながら、助走の部分で 100点満点なら付録だって100 点になるしかない。
 細部がとてもユーモラスであたたかい。隣人のおせっかい(恋人のリストをつくれ、恋人をこの順序で訪問しろ、ピンクの花束を持っていけ……)など、ことばで説明すればとてもつまらないことだが、ビル・マーレイのポーカー・フェイスと隣人の親切の押し売りの感じが、それがあたりまえという雰囲気で展開される。恋人のリストを受け取りにゆくときの携帯電話の使い方も、なんとういか、初めて携帯電話を買って使う時の「試しがけ」に似たばかばかしい楽しさがあって、そうなんだよな、携帯電話って、本当はこんなふうに使うべきなんだよなあ、なんて思ってしまう。(実際、待ち合わせの時なんか、そういう使い方になるねえ。どういう使い方かは映画を見てね。)
 あとは、もうほんわかムードで、くすくす、にこにこしながら 100点満点の映像と音楽の変奏を楽しむだけ。オールヌードで出てくるシャロン・ストーンの娘の現代っ子ぶりとか、ジェシカ・ラングの秘書のレズっぽい嫉妬の感じとか。それらが、なんというか、昔のビル・マーレイと恋人たちとの関係のようにも見えるところが、ジム・ジャームッシュの「腕」なんだろうなあ。
 訪問した先々の恋人の家での夕食のおかしさもいい。どの家庭もそれなりに豊かなはずなのに、貧乏・子だくさんの隣人の家での料理よりはるかにまずそう、というのも、幸せって何?と思わせて、笑わせる。
 ビル・マーレイが着ているジャージーと同じように腕と脚の部分に2本線の入ったジャージーを「息子」とおぼしき青年が着ているというのも、なかなかかわいらしい設定だ。ありふれたものが一番ありふれていない、というか、それぞれに個性を隠しているというところか。
 この映画は、いったい誰が手紙を書いた恋人なのかわからないまま終わる。それがまた楽しい。ほんとうに恋人が書いたのか。おせっかいな隣人、ビル・マーレイがどんな行動をするか知り尽くしているが書いたのか。手紙が届く寸前に家を出ていく恋人が書いたのか。それともビル・マーレイ自身が書いたのか。まあ、そんなことは、どうだっていいんですね。人には何かが恋しくなる時がある。恋しくなったら恋しくなったものを大切にする。それだけです。
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安水稔和「地名」ほか

2006-05-01 22:42:09 | 詩集
 安水稔和「地名」(「火曜日」第86号)。

あってなく
なくはなく
そこにあった
あることはない
そこにある

 この引用だけでは、たぶんどんな詩なのかわからないかもしれない。「太田 七篇」の最後の詩である。菅江真澄ゆかりの地を訪ね安水が詩を読む。
 時代が違うから、そこに存在するものも違う。しかし何かが共通する。それをたぐりよせるように、ことばにする。そのはてに引用した思いがふっと姿をあらわす。
 今、ここに存在する(ある)ものは、過去にはそのままの姿では存在しない。あることはできない。しかし、それは物理の時間、空間の問題として、そうであるだけだ。ことば、思い、のなかでは、今と過去はどれだけはなれていても重なり合った「現実」であり、その時間の隔たりはない。引用しなかった6篇の詩の後に「地名」を読むと、そうしたことを非常に強く感じる。
 ことばは時空を超える。ことばが書かれるとき、それはいつでも「今」「ここ」である。「今」「ここ」であるからこそ、「今ではない時間」「そこ」でもあり得る。
 そして、この感覚が、「火曜日」をつらぬいている。安水のもとで詩を書き、詩を読む多くの人の「現実」が重なり合い、「今」「ここ」をさまざまに押し広げる。豊かにする。「火曜日」に発表されている作品のすべてが印象に残るというわけではないが、だからこそ、そのすべてが「今」「ここ」なのだという感じがする。
 安水はなんだかとても不思議な仕事をしている。

 各務章『風の夢』(西日本新聞社)。
 このエッセイ集には子供の俳句や詩がときどき引用されている。各務と子供の交流があり、そこから「家族」が浮かび上がってくる。美しい。それはそれでいいのだけれど、何となく、気持ちが落ち着かない。美しすぎる。
 各務が子供たちを温かく見守り、子供たちのことばに一定の「意味」(感動)をつけくわえている。その結果、美しさは一定している。的確な表現ではないかもしれないが、何か、そこに各務の「理想」のようなものが含まれている感じがする。その分だけ、子供たちの「ぶれ」が遠くなっている感じがする。
 「今」「ここ」がまったく動いていかない感じがする。
 各務にとって予想外なことかもしれないが、そのことが私には少し怖い。

 「火曜日」に、豊原清明の「撃たれた木の下の声」という作品がのっている。

病が僕を襲う。
それは海を見渡すヨットの骨組みのような。

 冒頭のこの2行は怖い。しかし、その怖さは、各務の文章に感じた怖さとは違う。豊原の怖さは、怖いからこそ、その先へついていってみたい、と思わずにいられない。(各務の怖さは、思わず、もうこの先はついていかなくてもいい、と私が勝手に思い込んでしまうという怖さだ。各務の書いていることが怖いのではなく、私が、何も考えなくなってしまうという怖さである。)
 豊原の2行は、私をいきなり、何もない海へ放り出す。そこで私は「豊原」の見たものを見るしかどこへも進めない。「今」「ここ」が豊原のことばのなかでしか存在しえない。豊原は私ではない。しかし、私は「今」「ここ」で豊原の肉体であることを強いられ、揺さぶられる。怖い。怖いのに、わくわくする。「今」「ここ」がほんとうに存在する。その感覚は、安水が「地名」で書いたものに似ている、と私は思う。
 「あってなく/なくはなく/そこにあった/あることはない/そこにある」の主語は何か。安水の作品の世界では、菅江真澄が見たもの、安水が見たものと言えるかもしれない。豊原の詩の世界ではどうだろうか。

病が僕を襲う。
それは海を見渡すヨットの骨組みのような。
夢を見ていた心の旗の下
鳥が飛び交う南の空
顔を洗って出てみると
向こうからヒコウキ雲
僕はあの人かもしれないと
手を振り始めた
夢の通りに
あの人の薄く弱弱しい顔が、
見えてくる
あの人は笑う時、一回、唇をパッと開いてか
 ら 律儀に微笑むのである
あの人は微笑が美しかった
本当はあまり笑うことが許されなかったのか
記憶には僕は遠くの街に生きている
昔の同級生だったね
風見鶏のなか 笑いながらコーヒー飲める?

 主語は「今」「ここ」でしかない。

 高橋渉二「昆虫の書(13) 脳内蠍」。その冒頭。

いつのころからか
わたしのからだのなかにさそりが棲んでいるようだ
少年のころはそんなものはいなかったように思う

 この詩のおかしさ(いい意味での)は、この3行目の「少年のころ」がその後、詩のなかに出て来ない。しかし、完全に出て来ないかというと、そうではなく、「少年」以後、つまり少年から高橋の「いま」「ここ」までの時間が凝縮されて出てくる。凝縮の出発点(?)として、ある一時期が設定されている。「今」「ここ」が「少年のころ」という3行目のことばによって、「そこ」へは戻れないという感じを濃密にする。それが高橋の肉体を見るようで、なんともおかしい。思わず、へへへ、と笑いが込み上げてくる。
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