詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

映画「家の鍵」

2006-05-24 23:12:11 | 映画
監督 ジャンニ・アメリオ 出演 キム・ロッシ・スチュアート、アンドレ・ロッシ、シャルロット・ランプリング

 15年ぶりに再開した父と障害を持った子供、というより15年目にして初めて障害を持った息子といっしょに過ごす父。ふたりはいっしょに列車に乗り、ホテルに泊まり、リハビリ施設(病院?)へ行き、ノルウェーへも旅する。そのとまどいながらの交流を描いている。
 映画だからきっとハッピーエンディングだと思いながら見るのだが、とてもはらはらする。どきどきする。息子には身体的障害だけではなく情緒的に不安定な部分がある。自分の思い込んだことに対して熱中しすぎてまわりが見えなくなる。父は身体的障害よりも、そうした情緒的不安が引き起こす混乱に困惑する。周囲の目を気にする。それはごく普通のことなのだろうが、その父の不安と、息子の行動の行き先がまったくわからない。
 ただただ引きずり込まれていく。
 父に対して、ほんとうに彼が父としてやっていけるのか、と試すような息子の目つき。行動。息子が何かに夢中になったときの天真爛漫な明るさ。前者と後者の落差というか、隔たりの大きさ。まるで自分自身が、その息子の父になったような気持ちで、その世界に引きずり込まれる。
 父親の、周囲を気にしておびえたような暗い恥じらい。息子が心配、かわいそうと思う気持ち。ふいに訪れる温かい交流。そうした瞬間瞬間に引き込まれる。
 それだけではない。そうしたものがしだいに何かに向かって(つまりハッピーエンディングに向かって)統一されていくのではなく、ああ、仲よくなったと思ったら次には前よりももっと深い断絶が生まれる。どうしようもない、絶望がやってくる。この繰り返しに、ほんとうに引き込まれていく。「ダビンチ・コード」のように、辻褄合わせの展開がない。どうなるかわからない世界が、どうなるか予測させない映像で繰り広げられる。
 これこそ、映画でしかありえない世界だ。
 シャルロット・ランプリングの暗く、しかし絶対に絶望はしないと信じさせる絶望(言語矛盾だが、絶望としかいいようのない深い力、生きていくことを支える力)の演技もすばらしい。彼女がもらす哀しい希望、絶対に実行されない絶望としての希望も深く胸に迫る。
 主人公が、シャルロット・ランプリングの絶望に共鳴しながら、同時にシャルロット・ランプリングがその絶望を実行しない理由を納得するラストシーンが実に美しい。主人公の父が流す涙が美しい。そして「泣いちゃ駄目だよ」と励ます息子が美しい。「もう泣かない」と息子に誓いながら流す父の涙がとてもとてもとても美しい。人は誰でも泣いて生きている。泣いていいのだ。泣くことができるから、涙を見せないと誓えるのだ。
 こんなに美しいハッピーエンディングは久々に見た。

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『渋沢孝輔全詩集』を読む。(19)

2006-05-24 22:25:58 | 詩集
 『星夜/施術者たち』(1987)は「あとがき」を読むと7人の画家と渋沢の共同作業である。『渋沢孝輔全詩集』には絵が収録されていないので、私には絵と詩の関係がわからない。詩のみを読んでの感想である。
 「砂の薔薇」におもしろい行がある。

結晶と開花への線描がひとりでに
それぞれの真の目的にむかって伸びてゆき
陶酔の もしくは全き放棄の
さなかでみずからの運命を成就するとき

 「ひとりでに」。
 画家の描く線描が、その存在自身の力で、真の目的にむかって伸びてゆく。画家の思いが線描を動かしているのではなく、線描が動いていく。そして絵を完成させる。
 この線描を「詩のことば」に置き換えると、それはそのまま渋沢の世界にならないだろうか。渋沢が試みていることは、渋沢の意志でことばを動かすことではなく、ことばが「ひとりでに」、ことば自身の力で動いてゆく。そして世界を確立するというものではないだろうか。
 この「ひとりでに」はしかし自動筆記とは違う。自動筆記というとき、そこには「私」が存在する。「私」が存在しながら、「私」の意識の支配とは別の運動が「私」の肉体を動かして成立するものである。
 渋沢のことばの運動は、「自己」の不在が前提となっている。「私」は不在(非在)であって、その不在へむけてことばが動いてくる。そして、その動きのなかに、動きの瞬間瞬間のなかにのみ、「私」は存在するのだが、その存在はひとつの形、きまった形ではない。変化、生成する変化としての「私」である。

わたしたちのかけがえのない不在ゆえの
現前するどんな旋律がありえたろう   (「どんな旋律が」)

 「私」が不在しなければ何も現前しない。「私」が不在でなければ、どんな生成もありえない。何も立ち現れてくることはない。

 ふと「現成する」ということばを、ここでつかってみたくなる。渋沢の詩を把握するのに「現成」ということばをつかいたくなる。このころの渋沢の詩にはそういう要素が色濃く存在する。

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