八木道雄「たしかめたいだけ」(「石の詩」64)。
詩を読んでいて絶句してしまうことがある。ことばが、もうそれだけ、それ以外にありえないと思い、ただそこに書かれたことばを繰り返し繰り返し読むしかないときがある。八木道雄の「たしかめたいだけ」がそれである。
私は、ここに書かれていることばのすべてに魅了されたわけではない。「ぼくが右手で 木が左手だった頃」ということばに私は魅了された。私はたしかにそういう瞬間を知っている。大好きな木に触る。私が右手で木が左手である、という瞬間がある。そのとき目が葉っぱだったのか、耳が葉っぱだったのか、あるいはひっそりと隠れている鳥が耳だったのかわからないけれど、たしかにそういう瞬間かある。
八木は「たしかめたいだけ」と書いているが、ほんとうは「たしかめ」なくてもそうであることを知っていると思う。たしかめる必要などない。ただ木にさわれば、それが実現する。そういう木がある。ひとには、それぞれそのひとの木がある。そういう木を持たないひとは不幸である。八木はそういう木をもっている。私もそういう木をもっている。ただ、そういう幸福を感じる。
詩を読んでいて絶句してしまうことがある。ことばが、もうそれだけ、それ以外にありえないと思い、ただそこに書かれたことばを繰り返し繰り返し読むしかないときがある。八木道雄の「たしかめたいだけ」がそれである。
谷の木にさわるとき
ぼくは 木になりたいのではない
ぼくは ただ ぼくと木を つなぐ
はるかな なにかを たしかめたいだけ
青空の 風にそよぐ葉が ぼくとひとつだった頃の
淵の光を 探したいだけ
たとえば ぼくが右手で 木が左手だった頃の
ぼくが見たかもしれない でもすっかり忘れはてた
河原に落ちる 吊橋の 美しい影など
私は、ここに書かれていることばのすべてに魅了されたわけではない。「ぼくが右手で 木が左手だった頃」ということばに私は魅了された。私はたしかにそういう瞬間を知っている。大好きな木に触る。私が右手で木が左手である、という瞬間がある。そのとき目が葉っぱだったのか、耳が葉っぱだったのか、あるいはひっそりと隠れている鳥が耳だったのかわからないけれど、たしかにそういう瞬間かある。
八木は「たしかめたいだけ」と書いているが、ほんとうは「たしかめ」なくてもそうであることを知っていると思う。たしかめる必要などない。ただ木にさわれば、それが実現する。そういう木がある。ひとには、それぞれそのひとの木がある。そういう木を持たないひとは不幸である。八木はそういう木をもっている。私もそういう木をもっている。ただ、そういう幸福を感じる。