『渋沢孝輔全詩集』(思潮社)を読む。(12)
『越冬賦』(1977)を読むと不思議な思いに駆られる。「直列の詩学」が迫ってこない。別の「詩学」がはじまったという感じがする。それはたとえていえば「放電」という感じだ。ことばを直列に配置することで、ことばを爆発させていた手法が変化したという印象がある。ことばのエネルギーが、ただことばのまわりでゆったりとただよっている。むりに(?)爆発させる必要はないという感じだ。
巻頭の「越冬賦」。
この書き出しの「おれにとって」から「去った男」までの展開には「直列の詩学」がかすかに残っている。「おれ」という一人称が「男」という三人称にかわるまでの「直列」の持続力というものが、ここにはある。そして、その持続力、うねりが、何か「放電」という印象を呼び起こす。放電している間に、「おれ」が「男」に変化してしまったような感じがする。
直列はふたつのエネルギーを強烈に結びつけ、爆発するためにあるのではなく、その長い長いコードのなかで、エネルギーを消費し、おだやかになっていく感じがする。
「おだやか」と書いて、ふいに私は気がつくのだが、『越冬賦』で、渋沢の詩はおだやかなものを手に入れた。おだやかになった、という印象がある。暴れるのではなく、静かに放電する、という印象がある。
たとえば3行目に「狂暴」ということばが登場するが、そのことばのまえに「あのいかにも」という間延びしたことばがおかれることで「狂暴」が「狂暴」ではなくなっている。直接性が消え、遠い存在、危険がないもの、おだやかなものものになっている。
最初の2行の展開「酩酊に酩酊のはて/何にむかって醒めていったのか」という逆説のようなことばも行のわたりが散文的なためだろうか、とてもおだやかである。これがもし「酩酊に酩酊のはて何に/むかって醒めていったのか」とリズムの位置が違っていたら印象はまったく別のものになっていただろうと思う。「直列」の緊張感がいくらかでも残っただろうと思う。
書き出しの2行は、途中で
と裏返しの形で反復される。これもまた、不思議なことにおだやかである。論理が逆になっているにもかかわらず、どちらも同じという感じがする。それはやはり「直列」によってエネルギーが巨大なものに変化しているというより、むしろ逆に、放電されることでエネルギーが同質なものに変化しているという感じなのだ。正反対なものがエネルギーを失うことで、ともに同質になる瞬間がある。そういう瞬間のように見えるのである。
「直列の詩学」から「放電の詩学」へと変化した、ととりあえず仮定したい気持ちにかられる。
「橋を断つ」には、次の行がある。
詩は「意味」ではないけれど、ここでは意味を読み取りたくなる。「橋」とは「紐」(コード)に通じる。ある場と別の場をつなぐ存在である。「直列」のコードである。それを断ってしまう。ここしかない。ここで放電する。その放電のある瞬間、直列によって結びつけられていたもの、それ自体がもつ何かが甦る。放電すること、エネルギーを失うことによって、何か、ある存在が別の存在で洗われて、輝きを取り戻すような感じ。
それはあるいは直列によって爆発したものがしだいに落ち着きを取り戻し、本来のエネルギーに帰るということに似ているかもしれない。もちろん本来のエネルギーに帰るとはいっても、いったん爆発したのだから、それはもとのエネルギーそれ自体ではない。爆発することによって、荒いなおされたエネルギーだ。
「凝縮」ということばがつかわれているが、宇宙がビッグバンによって拡大し、やがて縮小するようなことが渋沢の内部で起き始めたのではないか。
「直列の詩学」による爆発も「時の成就」「言葉の成就」だが、爆発をへてもとに戻るのも「時の成就」「言葉の成就」かもしれない。
『越冬賦』(1977)を読むと不思議な思いに駆られる。「直列の詩学」が迫ってこない。別の「詩学」がはじまったという感じがする。それはたとえていえば「放電」という感じだ。ことばを直列に配置することで、ことばを爆発させていた手法が変化したという印象がある。ことばのエネルギーが、ただことばのまわりでゆったりとただよっている。むりに(?)爆発させる必要はないという感じだ。
巻頭の「越冬賦」。
酩酊に酩酊のはて
何にむかって醒めていったのか
あのいかにも狂暴な自然の光の
崩壊と損耗のときが忍びよるなかで
おれにとって慈愛は死の
きょうだいだろうかと自問しながら
書くことのかなたへと去った男は
この書き出しの「おれにとって」から「去った男」までの展開には「直列の詩学」がかすかに残っている。「おれ」という一人称が「男」という三人称にかわるまでの「直列」の持続力というものが、ここにはある。そして、その持続力、うねりが、何か「放電」という印象を呼び起こす。放電している間に、「おれ」が「男」に変化してしまったような感じがする。
直列はふたつのエネルギーを強烈に結びつけ、爆発するためにあるのではなく、その長い長いコードのなかで、エネルギーを消費し、おだやかになっていく感じがする。
「おだやか」と書いて、ふいに私は気がつくのだが、『越冬賦』で、渋沢の詩はおだやかなものを手に入れた。おだやかになった、という印象がある。暴れるのではなく、静かに放電する、という印象がある。
たとえば3行目に「狂暴」ということばが登場するが、そのことばのまえに「あのいかにも」という間延びしたことばがおかれることで「狂暴」が「狂暴」ではなくなっている。直接性が消え、遠い存在、危険がないもの、おだやかなものものになっている。
最初の2行の展開「酩酊に酩酊のはて/何にむかって醒めていったのか」という逆説のようなことばも行のわたりが散文的なためだろうか、とてもおだやかである。これがもし「酩酊に酩酊のはて何に/むかって醒めていったのか」とリズムの位置が違っていたら印象はまったく別のものになっていただろうと思う。「直列」の緊張感がいくらかでも残っただろうと思う。
書き出しの2行は、途中で
覚醒に覚醒のはて
何にむかってよっていったのか
と裏返しの形で反復される。これもまた、不思議なことにおだやかである。論理が逆になっているにもかかわらず、どちらも同じという感じがする。それはやはり「直列」によってエネルギーが巨大なものに変化しているというより、むしろ逆に、放電されることでエネルギーが同質なものに変化しているという感じなのだ。正反対なものがエネルギーを失うことで、ともに同質になる瞬間がある。そういう瞬間のように見えるのである。
「直列の詩学」から「放電の詩学」へと変化した、ととりあえず仮定したい気持ちにかられる。
「橋を断つ」には、次の行がある。
橋を断つ
いまはここに在る
これ以上帰るべきところもなく
夜の凝縮
火の凝縮
最後の時の方に身を傾けて
失われた光の
鮮やかな映像の甦るのを待つ
そう 時の成就だ
言葉の成就
詩は「意味」ではないけれど、ここでは意味を読み取りたくなる。「橋」とは「紐」(コード)に通じる。ある場と別の場をつなぐ存在である。「直列」のコードである。それを断ってしまう。ここしかない。ここで放電する。その放電のある瞬間、直列によって結びつけられていたもの、それ自体がもつ何かが甦る。放電すること、エネルギーを失うことによって、何か、ある存在が別の存在で洗われて、輝きを取り戻すような感じ。
それはあるいは直列によって爆発したものがしだいに落ち着きを取り戻し、本来のエネルギーに帰るということに似ているかもしれない。もちろん本来のエネルギーに帰るとはいっても、いったん爆発したのだから、それはもとのエネルギーそれ自体ではない。爆発することによって、荒いなおされたエネルギーだ。
「凝縮」ということばがつかわれているが、宇宙がビッグバンによって拡大し、やがて縮小するようなことが渋沢の内部で起き始めたのではないか。
「直列の詩学」による爆発も「時の成就」「言葉の成就」だが、爆発をへてもとに戻るのも「時の成就」「言葉の成就」かもしれない。