詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中清光「声」ほか

2006-05-09 17:06:22 | 詩集
 田中清光「声」(「現代詩手帖」5月号)は水の描写が非常に美しい。

ゆたかにふくれる川の水
小さな叫びとともに土地から土地へ
生命も運ばれてゆく
もし太陽がどんより垂れかかることがあっても
川面の水のつよい張りが
水平線を支える

 川はどこまで流れていくのか。田中は水平線を越えて流れる川を描く。その水の力にうっとりしてしまう。水の力が体のなかにみなぎってくるのを感じる。
 つづけて田中は書いている。

水は
あふれこぼれるのではなく
休むのでもなく
不可逆の軌道にそって 人びとの体内をも流れ
往くものに
絶対自由へ
跳べ とおしえる

 「水は/あふれこぼれるのではなく」ということばは、まるで川の水が水平線を押し広げているような感じがする。「休むのでもなく」も非常にのびのびした感じがする。体を解放する感じがする。そういう感覚があるから「体内」ということばが異様に響かない。逆にぴったりくる。まるで、川の流れをみつめながら、水平線の向こうまで跳び越えていけそうな気持ちになってくる。
 田中が書こうとしたものは、最後の連を読むと、私の感想とは無関係のことかもしれないとも思う。しかし、そういうことはどうでもいい気持ちが私にはする。引用した14行(1行あきを含む)に私は感動してしまった。
 私の住む街に田中が描いているような大きな川はないけれど、思わず川を見に行きたいという気持ちになった。



 吉田文憲の連作「崩れ落ちそうな瞬間をつなぎとめて」(「現代詩手帖」5月号)は田中の詩とは逆に精神を非常に細密な部分へと誘う。

なにかを言わないために、なにかを言う。

それは隠されてあるものなのか、顕れてあるものなのか。

だが遠くとは、どこか。それはここに咲いている淡い花、その花の傍らで微笑んでいるいなくなった人たちの顔、それはこの朽ちたベンチにわたしが坐っているいまここでもあるのではないでしょうか。  (谷内注 「ここ」に原文は傍点がある。)

 それぞれ別の小タイトルがついている作品から引用したのだが、ともに共通する精神がある。あらゆることが不確かである。自己の存在証明は、いつでも自己の不在証明でもある。だからこそ、吉田は詩を書くのだろう。ことばを選択する。その一瞬に、「いま、ここ」が存在する。「ここ」ではなく「遠く」とつながるために。
 存在の遠近感は消える。
 詩とは、存在の遠近感が消え、宙吊りになることだ。
 そしてそれは、田中の「絶対自由」ともどこかで通い合うにちがいない。吉田のことばもまた「跳べ」とささやきかけている。それは離れた場所や高みへのジャンプというよりは深淵へのジャンプかもしれないが。
 吉田の描き出すこの緊張感も、とても美しい。

コメント
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