詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

瀧克則「Ear Field 2」ほか

2006-05-05 21:10:13 | 詩集
 瀧克則「Ear Field 2」(「纜」10)。
 ちょっとわからない部分がある。1連目。

陽光に紛れて
揚げ雲雀の声が降りそそぐ
草に隠れた巣の中の
まだら模様の小さな卵が
孵化の兆しをみせている
枯れ枝にカエルの骸は
モズの速贄

 「揚げ雲雀」とあるから春の描写だと思うのだが、「モズの速贄」が私の季節の感覚とあわない。まさか去年の秋のカエルの死骸が枯れ枝(春なのに)に残っているということではないだろうと思うのだが……。だいたいモズというのは春になると人里から消えるものだと私は思っているので、とても不思議な気がする。
 2連目に

幾世代を経て
人の贄の記憶は
地の層に沈んでいる

とあるから、1連目は特に季節を限定した現実描写というより、時間を超えた(幾世代にもわたる)自然の描写なのかもしれないが、何か落ち着かない。
 気分が落ち着かないと感じたときは私は感想を書かないことにしているのだが、あえて書いているのは、最後の方にとても美しい描写があるからだ。

空では
鳥が風に運ばれる
懸命に羽ばたきながら
身を立て直し
押されながらも鳥は
風に乗る
その出来事もまた
野である

 「空」でおこなわれていることも「野である」という部分が美しい。地と天のひろがり、それを地からみつめて、野(地)であると断定する。そこには「幾世代を経て/人の贄の記憶は/地の層に沈んでいる」という地に足をつけた人間の視線がある。こういう視線は、私は大好きだ。
 だからこそ、1連目が気にかかる。現実の描写というよりも、2連目の3行(特に「人の贄」ということば)を引き出すために頭で考えた行ではないのか、と気にかかる。タイトルに「Ear Field 」とあるくらいなのだから、もっと肉体に則した(現実に目で見たもの)描写をしてもらいたい。

 同じ号の高田文月の「暗がりの母」は、瀧の作品と比べて現実をしっかりみつめている様子がつたわってくる。白内障の手術を受ける母と対話する。

結婚するまえにじつは別に好きな人がいて
その人と最後に行った山遊びのこと
それまでにも聞いたことのある話も初めて聞く話も
(誰にも言わなかったこと)が少しずつ込められ
ひとつ またひとつ
しまい込んでいた心の奥の大切な袋から取り出されてくる

 「(誰にも言わなかったこと)」が美しい。そのなかにはもちろん「それまでにも聞いたことのある話」も含まれている。その矛盾が美しい。人は誰でも「誰にも言わなかったこと」と断りながら、何度も同じ話をすることがある。それは「ぼけている」とかという問題ではなく、その秘密話を聞かされた人間との信頼関係が緊密であるという証拠なのである。信頼関係が強いからこそ、秘密の話をしたのかしなかったのか、わからない。意識されない。自分自身に語りかける、あるいは日記にひそかに書き記すのと同じ感覚なのだ。いつの日にか、高田はきっとまた母の「誰にも言わなかったこと」と断りつきで同じことを聞くだろう。こうした繰り返しこそ、瀧のことばではないが「幾世代も経て」人間に繰り返され、その記憶の地層をつくるものである。思想である。
 高田の詩にこそ「Ear Field 」というタイトルをつけてみたい思いにかられるのである。
コメント
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