詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(22)

2006-05-27 22:18:37 | 詩集
 『啼鳥四季』には「歳末のひも」の「むずむずと心迫るイメージだ」ほど「生」という感じではないが、何かことばのうごきとしてストレートなものを含む詩が複数ある。そして、そこに「日本」というものが浮かび上がる。しかも独自の「日本」というより、多くの日本人が感じるだろう日本が。

季節のめぐり 身体のリズム
それに応じてわれらの想像力を開く聖なる祭り
歓楽の祭りに
神も心をにぎやかにするだろう
               (「我が寝む夜ろは」)

漢字とかなの異(い)なる連なり
われらの融通無礙と痴呆の因よ
表意象形と柔美な表音とのあいだの
奇妙に遊動する隠れた空隙のおかげで
もどかしくも揺れながら生きる者は幸いなるかな
                (「燈台の光景」)

 季節(四季)や日本特有の文字、そのさまざまな表情への思い。こうした表現は、渋沢の描く世界が日本人の感覚に深く根ざしているということをあらためて伝える。ああ、渋沢も日本人なのだとあたりまえのことに思いがいたり、なぜか安心感を覚える。

 この詩集には、「米寿女性に捧げるオード」という、非常に明確な詩もある。タイトルどおりの詩なのだが、この詩にも私は非常に惹かれる。他の渋沢の作品を読んでいるときの、行から行への転換の緊張感がなく(といっても、読者である私の側の緊張感という意味だが)、渋沢の他者へのあたたかい息づかいが聞こえる。
 こういう詩が私は好きだ。

ついでにこれも件の大詩人のすすめによれば
アモールへの訴えには荘重体よりもふさわしいという
いささかくだけたこの「平俗体」をもどうか許されんことを

 「ついでに」という「くだけた」ことばが美しい。ほんとうに美しい。みとれてしまう。この気安いことば、平俗なことばが、そのまま渋沢と米寿女性との気の置けない関係を静かに浮かび上がらせる。
 「思想」はどこにでも存在するが、こういう気の置けない関係こそ、真の思想の根底にふさわしいものだと思う。他者と美しく暮らす、その暮らしを支えるものほど大切な思想はない。
 これまでの詩にはなかった(あるいは隠れていただけなのか)、この平俗な感じ、平俗・平凡な意識(日本には四季があり、そのリズムが日本人の体に作用している、とか、漢字とひらがなのまじった文体が日本語の感性をつくっている、とか)が、詩の垣根を低くしている。
 磨き抜かれた高踏的な表現も詩として美しいが、磨き上げることをちょっと省いたことばには、それ独自の「情緒」というものがある。ちょっと古い陶器の茶碗のような、不思議な情緒がある。
 このころの渋沢の詩に、そういうものを感じる。
コメント
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