詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(14)

2006-05-10 22:14:19 | 詩集
 『回廊』(1979)について。
 渋沢の詩のリズムは、私には読みやすいものと読みづらいものとが混在する。どちらかといえば読みづらい。そうした印象があるなかで「回廊」はずいぶん風変わりだ。冒頭の1行が非常に読みやすい。

かいろう かいろう かいろうくぐり

 この行は「かいろう かいろう かいろうくだり」「かいろう かいろう かいろうめぐり」という変奏で繰り返される。「ろう」の繰り返しとそれを締める「り」の押さえ。耳にとても気持ちがいい、というよりも舌や口蓋、喉に気持ちがいい。(私は声に出して詩を読むことはないが、読むと自然に舌や喉が動いているのを感じる。)そのとき、私は最初の2回の「かいろう」はほとんど「かいろ」と読んでいる。「う」の音のほとんど消えてしまっている。そのくせ3回目は「かいろう」とゆったりと読んでいる。それは何か「ろ」という音を楽しむためという感じが残る。意味ではなく、音の楽しみが、ここにある。
 その「ろ」はしばらくして突然復活する。

櫓からろ 泥からろ
樹液のなかに巣ごもる燠火から炉へ

 「櫓からろ」の「ろ」は何だろう。「泥からろ」の「ろ」は何だろう。次の行の「炉」だろうか。私にはそうは思えない。何ものでもない「ろ」ではないだろうか。意味の(あるいはイメージの、と言った方がいいかもしれない)定まっていない「ろ」ではないだろうか。
 音が先に出てくる。そして、あとから「意味」が追いかける。イメージが追いかける。そして「炉」になる。
 「かいろう かいろう かいろうくぐり」も同じである。最初の「かいろう」は何ものでもない。2度目も何ものでもない。繰り返すことで、舌や口蓋、喉が記憶を呼び覚まし「回廊」になる。今、便宜的に「回廊」と書いたが、本当はまだ「回廊」にはなっていない。具体的なのは意味、イメージではなく、単に音だけである。
 だからこそ、この詩は、冒頭の1行のあと、1行の空白を挟んで

はじめの合唱のまえに

とつづく。渋沢は、この1行を「音」として手に入れている。どんな意味、どんなイメージもそのときは存在していない。具体的な意味もイメージも、何も存在しないまま詩ははじまる。それはつまり、具体的な意味(といっても渋沢は「意味」を求めているのではないだろうから、ここでいう「意味」とは便宜上、そう呼ぶだけの「意味」である)、あるいはイメージを求めて詩は展開するということでもある。

はじめの合唱のまえに
おどろくべき単一な水いろの雲や
地下のほらあなに鎖でつながれていた無地のゆめ
馬の神の特徴と海の神の特徴を
知られるかぎりの地図のうえにくりのべて
櫓からろ 泥からろ
樹液のなかに巣ごもる燠火から炉へ
七巻きして流れるわたし自身のふれ込みは
いうまでもなく芽ぐみのときの物狂いのせい

 音のなかで放電し、そこから何かが立ち上がってくるのをただ待っている。何かがあらわれてくるのを待つのが、いつのまにか渋沢の詩になったのかもしれない。特に「馬の神の特徴と海の神の特徴を」という行はそのことを明確に物語っているように思える。「馬」「海」と漢字で書くとまったく別の存在だが「うま」「うみ」と書き直してみると、それは単に音の違いにすぎない。音の変奏である。音があって、そのあとで意味やイメージがやってきているのである。

 そうしたことで一篇の詩はできるのか。もちろん完成するのである。それまでに直列の詩学でたくわえてきたエネルギーが渋沢にはある。渋沢のことばは、直列の詩学でエネルギーをため込んでいる。今はそれを放出するだけである。「七巻して流れる」(私はこれを「ななまきしてながれる」とな行のなかで読む)の「流れる」に従えば、渋沢は自分のたくわえたことば、詩学を、ゆったりと流れるままにまかせはじめているといえるかもしれない。
 作為を放棄する。そして、ただ渋沢が出会ったものと向き合うだけだ。何かに向き合えば、おのずとそこにショートが発生する。そして放電がはじまるという具合である。
 この詩には「宮川淳」という固有名詞が出てくる。この詩は宮川淳と出会い、そこからはじまった放電を描いているともいえる。

そう われわれは二人でなければならない

という行が詩の後半に出でくる。誰かに出会う、何かに出会う。そういうことがなければショートもない。放電もない。

コメント
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