『渋沢孝輔全詩集』(思潮社)を読む。(10)
「凋落期」(『われアルカディアにもあり』)は渋沢には珍しく散文形式で書かれている。散文とはどこまでことばを動かしていけるか、という精神で書かれたものだと思う。「結論」が想定されていない精神だと思う。最初にでてきたものが最後には存在しない。それでもよし、とするのが散文精神だろう。書き出しの1連目にそれがよくあらわれている。
「何語であろうとわたしを殺しえず救いえない」の「何語」が強烈である。これは「日本語」「英語」「フランス語」の類の「何語」ではない。西脇の言語、朔太郎の言語、そのただれそれの詩の言語というような意味である。「詩」はそれぞれ「固有の外国語」としての言語である。そうした先行するどのような言語も「わたし」を殺しも救いもしない。渋沢はただ渋沢の言語として「快適に」「滑る」。立ち止まらずにただひたすら先へ先へと滑るようにして進む。それが散文である。(「滑る」という動詞がつかわれるのは、渋沢にとって「詩」は滑るのではなく、立ち止まりながら進むという認識がある空かもしれない。)
この作品のなかで、私がもうひとつ目を止めたのは「紐」ということばである。
私は渋沢の作品を「直列の詩学」ということばで何度も書いてきたが、その直列のコードが「紐」である。あるものとあるものを直列の形式でつなぐ紐になる。そして、そのあるものとはたとえば「心霊の消息」と「音楽の破壊」というように本来何の関係もないもの、連結の手がかりがないものである。そうしたものを「直列につなぐ紐」。そうしたものを直列につないだとき、そこから「真の感動」、つまり「詩」がはじまる。
渋沢は、この作品の冒頭で、渋沢の「詩学」を語っているとも言える。
同時に「詩」と「散文」の違いをも語っているといえるかもしれない。詩は出会うはずのない言語(存在)を直列の形式につなぎあわせ、爆発すること。それに対して散文は、出会うはずのない言語が出会って、それがそれぞれに暴走し、世界をどこまでも突き進むこと。散文は、その運動を追いかけること。紐でつなぎとめるのではなく、ひたすら追いかけること。
渋沢がこの作品のなかで「散文」を定義していると思われる部分はほかにもある。
「奇妙な逸脱」。渋沢にとって「紐」でつなぎとめられなかったもの。つなぎとめることで「真の感動」へと爆発させられなかったもの。「紐」から逃れて滑って行ったもの。その総体としての「逸脱」が「散文」なのではないか。
*
「現代詩手帖」5月号を読んでいると、渋沢と交流のあった入沢康夫がおもしろいことを語っている。入沢によれば、渋沢は「超ひも理論」に関心があったらしい。その「超ひも」とこの作品の「紐」と、関係があるかないかはわからないが、渋沢は「紐」に関心があったことだけは確からしい。
もし渋沢の意識に「超ひも理論」と結びつくものかあるとすれば、「撚糸島」(ここにも「ひも」に通じる「糸」が出てくる)の2連構成を、対称性と対称性の崩れから読み直してみなければならないかもしれない。
私は渋沢の作品を「直列の詩学」と小学生の理科のレベルのことばで把握していたが、現代物理学の視点から見直すのも刺激的だと思う。
「凋落期」(『われアルカディアにもあり』)は渋沢には珍しく散文形式で書かれている。散文とはどこまでことばを動かしていけるか、という精神で書かれたものだと思う。「結論」が想定されていない精神だと思う。最初にでてきたものが最後には存在しない。それでもよし、とするのが散文精神だろう。書き出しの1連目にそれがよくあらわれている。
心霊の消息と音楽の破壊の結び目でわたしが完全に紐となったとき真の感動は訪れるはずだと久しくおもっていたけれどもわたしが紐になるより先に消息の心霊の方がしゃしゃり出て奇怪な音楽の山になってしまったのであった。こうなれば何語であろうとわたしを殺しえず救いえないことは明白である。そこでひたすら快適にわたしは滑った。
「何語であろうとわたしを殺しえず救いえない」の「何語」が強烈である。これは「日本語」「英語」「フランス語」の類の「何語」ではない。西脇の言語、朔太郎の言語、そのただれそれの詩の言語というような意味である。「詩」はそれぞれ「固有の外国語」としての言語である。そうした先行するどのような言語も「わたし」を殺しも救いもしない。渋沢はただ渋沢の言語として「快適に」「滑る」。立ち止まらずにただひたすら先へ先へと滑るようにして進む。それが散文である。(「滑る」という動詞がつかわれるのは、渋沢にとって「詩」は滑るのではなく、立ち止まりながら進むという認識がある空かもしれない。)
この作品のなかで、私がもうひとつ目を止めたのは「紐」ということばである。
私は渋沢の作品を「直列の詩学」ということばで何度も書いてきたが、その直列のコードが「紐」である。あるものとあるものを直列の形式でつなぐ紐になる。そして、そのあるものとはたとえば「心霊の消息」と「音楽の破壊」というように本来何の関係もないもの、連結の手がかりがないものである。そうしたものを「直列につなぐ紐」。そうしたものを直列につないだとき、そこから「真の感動」、つまり「詩」がはじまる。
渋沢は、この作品の冒頭で、渋沢の「詩学」を語っているとも言える。
同時に「詩」と「散文」の違いをも語っているといえるかもしれない。詩は出会うはずのない言語(存在)を直列の形式につなぎあわせ、爆発すること。それに対して散文は、出会うはずのない言語が出会って、それがそれぞれに暴走し、世界をどこまでも突き進むこと。散文は、その運動を追いかけること。紐でつなぎとめるのではなく、ひたすら追いかけること。
渋沢がこの作品のなかで「散文」を定義していると思われる部分はほかにもある。
それゆえ、完全な消滅とは波打つ火焔の連夜のゆめのようなものかもしれないと思った。つまりあらゆる陳腐の壮大な鏡にちがいないと思ったので故意にそれを真新しい紙に大書して街頭に曝しておいた。奇妙な逸脱だ。酷熱の鏡だ。金色の館(カ・ドーロ)に偉大な諸原理はまだ健在であったが、そのときからわたしはすべてを疑わずにはいられなかった。
「奇妙な逸脱」。渋沢にとって「紐」でつなぎとめられなかったもの。つなぎとめることで「真の感動」へと爆発させられなかったもの。「紐」から逃れて滑って行ったもの。その総体としての「逸脱」が「散文」なのではないか。
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「現代詩手帖」5月号を読んでいると、渋沢と交流のあった入沢康夫がおもしろいことを語っている。入沢によれば、渋沢は「超ひも理論」に関心があったらしい。その「超ひも」とこの作品の「紐」と、関係があるかないかはわからないが、渋沢は「紐」に関心があったことだけは確からしい。
もし渋沢の意識に「超ひも理論」と結びつくものかあるとすれば、「撚糸島」(ここにも「ひも」に通じる「糸」が出てくる)の2連構成を、対称性と対称性の崩れから読み直してみなければならないかもしれない。
私は渋沢の作品を「直列の詩学」と小学生の理科のレベルのことばで把握していたが、現代物理学の視点から見直すのも刺激的だと思う。