詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂田よう子「となりのおくさん」ほか

2006-05-30 22:44:07 | 詩集
 坂田よう子「となりのおくさん」(「ぶらんこのり」創刊号)。
    (「よう」は「火」偏に「華」だが、漢字がないので、ひらがなで代用)

となりのおくさんはあいさつにうるさい
朝ふとんを干していると
ベランダ越しにごあいさつはとさけぶ

お昼時にチャイムがなるので出てみると
スーパーの袋かかえたおくさんが
ごあいさつはとさけぶ

 こういう「おくさん」はどこにでもいそうである。しかし、この詩は最後で「となりのおくさん」がほんとうはいなかったかもしれない、と暗示する。それはほんとうは「わたし」だったかもしれない。「わたし」の内に存在する意識が「となりのおくさん」とっなて姿をあらわしたのである。
 「かなちゃんとばあちゃん」も同じ構造になっている。「かなちゃん」と「ばあちゃん」は同一人物である。ひとりの人間が自分自身のなかで対話している。
 自分自身のなかで対話を十分に繰り返して生きる、というのが坂田の基本的な生き方(思想)かもしれない。しかし、それは、実はややこしいことではない。何度も何度も、ただ肉体にことばをなじませるということである。ことばがなめらかになるまで、口に出さず、こころのなかで繰り返してみるということである。「口語」になるまで、ことばを自分のなかでころがしつづける。ことばと肉体を一体化させてしまう。
 「一体化」が坂田の思想である。

 「一体化」はほかのところにも出てくる。
 たとえば「スーパーの袋かかえたおくさんが」という一行。私なら「スーパーの袋をかかえたおくさんが」と「を」を入れてしまう。しかし、坂田は「を」を省く。この省略が坂田の思想である。「を」が省略されることで「おばさん」と「スーパーの袋」は分離できない、とても緊密な関係になる。この緊密な関係を「一体化」である。
 後半部分に出てくる「お向かいの玄関から女の子がランドセルしょって」という行の女の子とランドセルの関係も同じである。「女の子」と「ランドセル」は組合わさってはじめて目の前にあらわれる。現実となる。

 こうした「一体化」が実は「となりのおくさん」と「わたし」の一体化を暗示する。



 同じ号、坂多瑩子「待つ」。簡潔で美しい詩だ。

汽車がくるのを
待っていた
空を塗って
線路の
むこうがわにある
大きなイチョウの木
を描いて
駅は小さく
屋根は
オレンジ色に塗って
月並みな構図だけれど
汽車がくるのを
待っていた
汽車を描いたら
完ぺきな
はずだった
あれから
さまざまなものが
通過していった
今見上げる空より
もっと空らしい空が
スケッチブックの一ページ目
にある
汽車は
まだこないが

 「月並みな構図だけれど」がとてもいい。この詩自体も「月並み」といってしまえば月並みになってしまうが、それでも美しいのは坂多に「月並みな構図」という自己批評の精神があるからだ。

 「ぶらんこ」は坂田に坂多、そして中井ひさ子の3人の同人誌だが、3人に共通するのは、この自己批評の精神である。自分をしっかりみつめている。そういう安心感が、どの作品にもある。


コメント
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