「歳末のひも」(『啼鳥四季』)はビッグバンに関する「ひも理論」に触れたものである。そのなかに驚くべき1行がある。
こんなに簡単に渋沢自身が自分の関心を詩のなかに語ったことがあるだろうか。詩にかぎらず、あらゆる文学(あるいは芸術)は自分に関心かあることを書く。それはあたりまえの前提である。だから描く対象に対して「心迫るイメージだ」とは普通は書かない。自分にとってこころに迫ってくるのは当然であり、どうやって自分が感じているような心迫るイメージをことばで具体化し、読者に伝えるかが文学である。自分で感心してしまっては、しようがない。
だが、渋沢は書かずにはいられなかった。それほどそのイメージは(理論は、と渋沢は書いてはいない)鮮烈だったということだろう。渋沢にとって「ひも理論」とはどんなものであったのか。
銀河、星雲を「渋沢の詩」と書き換えれば、それはそのまま渋沢の詩の誕生を語ることになるだろう。渋沢自身の詩(言語宇宙)の誕生の構図と宇宙誕生の構図、その理論が一致するからこそ、渋沢は「むずむずと心迫るイメージだ」と書かずにいられなかったのだろう。
とりわけ渋沢に刺激的だったのは「くねり まがり よじれ たわみ/反り めくれ ねじれ 折れ くびれ/もだえるように動きまわって/輪をつくったり 千切れたり からまったり」という動きではないだろうか。
こまれで私は渋沢の詩学について「直列の詩学」「放電の詩学」と書いてきた。「直列の詩学」には「直列のためのコード(ひも)」が必要だ。その「ひも」はけっしてまっすぐではない。むしろ、複雑にくねり、まがっている。
「弾道学」の書き出し。
これは実は「叫ぶことは易しい(けれどもその)叫びにすべての日と夜とを載せることは難しい」という文が千切れ、再び直結したものであった。省略された「けれどもその」は、直結、「直列」を構成する「ひも(コード)」であった。詩に書かれた2行になるまでの間に、そのコードは「くねり まがり……」という運動をしているのだ。運動のはてに「千切れ」てなくなり、「直列」という構造が出現したのである。
渋沢の詩には同じ行(類似の行)の繰り返しが多いが、そうしたバリエーションはすべてこの運動の、それぞれの瞬間である。「ひも」はうごめくあいだにもつれるから、何かを直結するためには一度ほどかなければならない。その「ほどき」の過程が、類似の行の繰り返しである。いわばもとのまっすぐな「ひも」にもどって「直列」のための作業をやりなおすのである。
「ひも」につられてというか、「心迫るイメージ」に誘い出されて、もうひとつ、これまで渋沢が書いて来なかったことばが出てくる。「エネルギー」ということばが。
「エネルギー」の運動は、そのまま「ひも」の運動と重なる。「うねうねと めくれ 反り 折れ くびれ」る。エネルギーの動き方が「ひも」を立ち上がらせている。エネルギーがただそこに存在するだけでは「ひも」は出現しない。動くことによって「ひも」が生成する。それは「直列の詩学」のことばが動くことで、その動きのなかに「直列のためのコード」(たとえば、「けれどもその」)が浮かび上がってくるのと同じである。
今引用した行には、そうした構図意外にも、驚くべきことばがのこされている。
「すごい」「まったくすごい」。ともに「エネルギー」を修飾することばだが、こんなに単純で丸裸の、「詩」からほど遠いことばが、渋沢の詩の核心をあらわす部分でつかわれていることには、ほんとうに驚かざるを得ない。
「すごい」「まったくすごい」はなくてもいいことばだし、ほんとうに「すごい」のなら、そのすごさをもっと具体的に書かなければ文学にはならないだろう。しかし、そういう配慮(?)をする余裕もないほど、渋沢は「ひも」ととらわれていた。
「ひも」と渋沢自身が一体となってしまって、その区別がつかない。そういう「夢中」な状態で「すごい」「ものすごい」ということばは書かれているのだ。「心迫るイメージ」も同じである。
「すごい」「ものすごい」「心迫るイメージ」と書いたとき、他人が(読者が)、「どこが?」と質問してくることなど考えていない。自分が「すごい」と思っているから、だれでも「すごい」と感じると、単純に思い込んでいる。
渋沢の詩にしては、まったく異例な作品だと思う。そして、この異例さによって、この詩はひときわ印象に残る。この作品が渋沢の最良のものであるかどうかはよくわからないが、必ず思い出してしまう作品のひとつである。
むずむずと心迫るイメージだ
こんなに簡単に渋沢自身が自分の関心を詩のなかに語ったことがあるだろうか。詩にかぎらず、あらゆる文学(あるいは芸術)は自分に関心かあることを書く。それはあたりまえの前提である。だから描く対象に対して「心迫るイメージだ」とは普通は書かない。自分にとってこころに迫ってくるのは当然であり、どうやって自分が感じているような心迫るイメージをことばで具体化し、読者に伝えるかが文学である。自分で感心してしまっては、しようがない。
だが、渋沢は書かずにはいられなかった。それほどそのイメージは(理論は、と渋沢は書いてはいない)鮮烈だったということだろう。渋沢にとって「ひも理論」とはどんなものであったのか。
聞けば宇宙ひも というものがあるのだという
ビッグバン以後の
膨張 冷却 固形化の過程で
冷蔵庫の氷に走るひび割れに似て
宇宙の原質のあちこちにひびが入り
猛烈な高エネルギーを孕む巨大なひもとして
無限の暗黒の空間を
くねり まがり よじれ たわみ
反り めくれ ねじれ 折れ くびれ
もだえるように動きまわって
輪をつくったり 千切れたり からまったり
不規則な運動を繰り返すうちに
そのひものまわりに塵が集まり
飛び飛びに
無数の銀河や星雲のようなものが出来たのだと
むずむずと心迫るイメージだ
銀河、星雲を「渋沢の詩」と書き換えれば、それはそのまま渋沢の詩の誕生を語ることになるだろう。渋沢自身の詩(言語宇宙)の誕生の構図と宇宙誕生の構図、その理論が一致するからこそ、渋沢は「むずむずと心迫るイメージだ」と書かずにいられなかったのだろう。
とりわけ渋沢に刺激的だったのは「くねり まがり よじれ たわみ/反り めくれ ねじれ 折れ くびれ/もだえるように動きまわって/輪をつくったり 千切れたり からまったり」という動きではないだろうか。
こまれで私は渋沢の詩学について「直列の詩学」「放電の詩学」と書いてきた。「直列の詩学」には「直列のためのコード(ひも)」が必要だ。その「ひも」はけっしてまっすぐではない。むしろ、複雑にくねり、まがっている。
「弾道学」の書き出し。
叫ぶことは易しい叫びに
すべての日と夜とを載せることは難しい
これは実は「叫ぶことは易しい(けれどもその)叫びにすべての日と夜とを載せることは難しい」という文が千切れ、再び直結したものであった。省略された「けれどもその」は、直結、「直列」を構成する「ひも(コード)」であった。詩に書かれた2行になるまでの間に、そのコードは「くねり まがり……」という運動をしているのだ。運動のはてに「千切れ」てなくなり、「直列」という構造が出現したのである。
渋沢の詩には同じ行(類似の行)の繰り返しが多いが、そうしたバリエーションはすべてこの運動の、それぞれの瞬間である。「ひも」はうごめくあいだにもつれるから、何かを直結するためには一度ほどかなければならない。その「ほどき」の過程が、類似の行の繰り返しである。いわばもとのまっすぐな「ひも」にもどって「直列」のための作業をやりなおすのである。
「ひも」につられてというか、「心迫るイメージ」に誘い出されて、もうひとつ、これまで渋沢が書いて来なかったことばが出てくる。「エネルギー」ということばが。
人出でごったがえす暮の街にはすごいエネルギーが溢れていた
まったくすごいエネルギーが溢れていて
うねうねと めくれ 反り 折れ くびれ
いたるところで淀んでは また流れていた
わたしのほうはその流れに小突きまわされ
弾(はじ)かれて 街路樹のようやく枯れてきた葉など眺める
「エネルギー」の運動は、そのまま「ひも」の運動と重なる。「うねうねと めくれ 反り 折れ くびれ」る。エネルギーの動き方が「ひも」を立ち上がらせている。エネルギーがただそこに存在するだけでは「ひも」は出現しない。動くことによって「ひも」が生成する。それは「直列の詩学」のことばが動くことで、その動きのなかに「直列のためのコード」(たとえば、「けれどもその」)が浮かび上がってくるのと同じである。
今引用した行には、そうした構図意外にも、驚くべきことばがのこされている。
「すごい」「まったくすごい」。ともに「エネルギー」を修飾することばだが、こんなに単純で丸裸の、「詩」からほど遠いことばが、渋沢の詩の核心をあらわす部分でつかわれていることには、ほんとうに驚かざるを得ない。
「すごい」「まったくすごい」はなくてもいいことばだし、ほんとうに「すごい」のなら、そのすごさをもっと具体的に書かなければ文学にはならないだろう。しかし、そういう配慮(?)をする余裕もないほど、渋沢は「ひも」ととらわれていた。
「ひも」と渋沢自身が一体となってしまって、その区別がつかない。そういう「夢中」な状態で「すごい」「ものすごい」ということばは書かれているのだ。「心迫るイメージ」も同じである。
「すごい」「ものすごい」「心迫るイメージ」と書いたとき、他人が(読者が)、「どこが?」と質問してくることなど考えていない。自分が「すごい」と思っているから、だれでも「すごい」と感じると、単純に思い込んでいる。
渋沢の詩にしては、まったく異例な作品だと思う。そして、この異例さによって、この詩はひときわ印象に残る。この作品が渋沢の最良のものであるかどうかはよくわからないが、必ず思い出してしまう作品のひとつである。