監督 根岸吉太郎 出演 佐藤浩一、伊勢谷友介、小泉今日子
非常に美しいシーンがある。登場人物のそれぞれが夢をかけた朝。その光。まだだれもいない競馬場。ただ静けさだけがある。しかもそれはしだいに静かになっていく静けさである。そして雪のつもった街なみ。屋根の雪のまるみ。雪の下からのぞく瓦。これも静かである。不純物がいっさいない。邪念がない。
ファーストシーンの雪で視界の悪い風景とはまったく逆である。ファーストシーンで東京から帰ってきた弟は携帯電話を捨てるが、その捨てるという行為さえ邪念に満ちている。未練に満ちている。
これが最後の朝には完全に別なものになっている。弟は雪の玉をつくって屋根に載せる。願いごとがかなうように「おまじない」をする。しかし、その「おまじない」、願いには邪念がない。手塩にかけた馬が勝ちますように、と祈っているのではない。完全に信じきっている。それでも祈るのは、それが自分自身への「けじめ」だからである。「けじめ」をつけるために祈るのである。そして「けじめ」はついている。だから心配などないのだ。
ハッピーエンディングの映画はハッピーエンドに終わるとわかっていても、はらはらどきどきするものが多い。そのはらはらどきどきをとおして観客は主人公と一体になる。カタルシスを味わう。ところがこの映画はそうではない。まったくはらはらどきどきしない。それぞれの登場人物がそれぞれの夢をかけた結末だが、それぞれに「けじめ」がついている。だからこの映画はほんとうの結末、馬がほんとうに勝ったかどうかなど映像化しない。そんなことはどうでもいいからである。
このきれいさっぱりとした気分、「けじめ」の美しさが、冬晴れの朝の光にあふれている。とても気持ちがいい。
この朝の光が美しいのは、それまでの、うじゃうじゃした人間のあり方が丁寧に描かれているからである。ファーストシーンの雪と、最後の朝の光の間に、いくつものできごとがあり、そのできごとを通じて一人一人が「けじめ」を発見する。
だれもがいらだちをかかえ、不安をかかえ、生きている。どうしていいかわからずに生きている。どうしようもないから他人にぶつかり、他人に甘え、もがく。他人とぶつかることで、他人から何かしらの影響を受け、自分のなかにとりいれていく。そしてそれは、実は自分自身のなかに残っていたものであった。新しいものではない。忘れていたものであった。
象徴的なシーンがある。
弟が風呂の蛇口を閉めながら、流れる湯に触れる。そのとき過去がふいに甦る。小川の流れが、ザリガニを仲間といっしょにとったことが。そして忘れていたはずの小学校の校歌が口をついて出てくる。邪心などない子供のときの素直さが甦ってくる。そうした時代があったのだ。ただ、したいからそれをする。したいことができるという喜びの時間があったのだ。それをとりもどす。「けじめ」は、邪心を捨て、自分がしたいことをする、ただそれだけのことである。
この映画のすばらしさは、この風呂場のシーンをはじめ、どのシーンにも押しつけがましさがないことである。それからどうなった、とはけっして言わないことである。そういうことは観客のこころのなかで起きればいいだけのことである。
忘れられないシーンの連続だが、もう一つだけあげるとすれば、兄が車に乗っている弟を外へ呼び出すために、窓に向かって雪の玉をぶつけるシーンである。雪の玉は窓にぶつかり、砕ける。一度、二度。この二度、というのがすばらしい。最初は何が起きたのか弟にはわからない。二度目に兄がしていることがわかる。何か伝えたいのだ、とわかる。もちろん雪の玉だけでは思いは伝わらない。だからそのあと兄と弟の会話があるのだが、それも雪の玉のように、非常に不明瞭なものである。「馬はいい」と言うだけなのだ。とてもいい。思わず涙が出てくる。兄が知っているのは雪と馬。だから雪をぶつける。だから馬を語る。それが兄の人生であり、兄の思想だ。「馬はいいなあ」というのが兄の思想なのだ。そこに兄の人生のすべてがある。
思想とは肉体にまぎれこんだことば、肉体と一体になったことばである。たとえば弟の小学時代の仲間、厩舎の仲間にとっては「大地に根を張るかしわ(?)の木、スズラン花咲く……」という小学校の校歌が思想であり、認知症の母親にとっては「私には東京の大学を出て社長になっている息子がいる。長い間会っていないけれど、もうすぐ会いに来てくれる」が思想なのである。
一人一人の思想が、この映画では揺るぎなく描かれている。香川照之演じる厩舎主のように、取り立ててせりふがない人物まで、その肉体で、表情で、まぎれもなく生きているということを伝えてくる。肉体そのものが思想になっている。
この肉体そのものが思想になっている、という意味では、この映画の絶対的な主人公、馬「ウンリュウ」の体こそ思想である。思想であるからこそ、見る人を引きつける。ばんえい競馬へやってくる人を引きつける。ただ苦しみを耐えて走るだけではない。たてがみを編んで気取る(?)その姿も思想である。
書き始めると、どこまでもどこまでも書きたくなってしまう。書きながら次々に別のシーンが甦ってくる。大好きになってしまった映画である。大好きな、大好きな、大好きな映画である。
非常に美しいシーンがある。登場人物のそれぞれが夢をかけた朝。その光。まだだれもいない競馬場。ただ静けさだけがある。しかもそれはしだいに静かになっていく静けさである。そして雪のつもった街なみ。屋根の雪のまるみ。雪の下からのぞく瓦。これも静かである。不純物がいっさいない。邪念がない。
ファーストシーンの雪で視界の悪い風景とはまったく逆である。ファーストシーンで東京から帰ってきた弟は携帯電話を捨てるが、その捨てるという行為さえ邪念に満ちている。未練に満ちている。
これが最後の朝には完全に別なものになっている。弟は雪の玉をつくって屋根に載せる。願いごとがかなうように「おまじない」をする。しかし、その「おまじない」、願いには邪念がない。手塩にかけた馬が勝ちますように、と祈っているのではない。完全に信じきっている。それでも祈るのは、それが自分自身への「けじめ」だからである。「けじめ」をつけるために祈るのである。そして「けじめ」はついている。だから心配などないのだ。
ハッピーエンディングの映画はハッピーエンドに終わるとわかっていても、はらはらどきどきするものが多い。そのはらはらどきどきをとおして観客は主人公と一体になる。カタルシスを味わう。ところがこの映画はそうではない。まったくはらはらどきどきしない。それぞれの登場人物がそれぞれの夢をかけた結末だが、それぞれに「けじめ」がついている。だからこの映画はほんとうの結末、馬がほんとうに勝ったかどうかなど映像化しない。そんなことはどうでもいいからである。
このきれいさっぱりとした気分、「けじめ」の美しさが、冬晴れの朝の光にあふれている。とても気持ちがいい。
この朝の光が美しいのは、それまでの、うじゃうじゃした人間のあり方が丁寧に描かれているからである。ファーストシーンの雪と、最後の朝の光の間に、いくつものできごとがあり、そのできごとを通じて一人一人が「けじめ」を発見する。
だれもがいらだちをかかえ、不安をかかえ、生きている。どうしていいかわからずに生きている。どうしようもないから他人にぶつかり、他人に甘え、もがく。他人とぶつかることで、他人から何かしらの影響を受け、自分のなかにとりいれていく。そしてそれは、実は自分自身のなかに残っていたものであった。新しいものではない。忘れていたものであった。
象徴的なシーンがある。
弟が風呂の蛇口を閉めながら、流れる湯に触れる。そのとき過去がふいに甦る。小川の流れが、ザリガニを仲間といっしょにとったことが。そして忘れていたはずの小学校の校歌が口をついて出てくる。邪心などない子供のときの素直さが甦ってくる。そうした時代があったのだ。ただ、したいからそれをする。したいことができるという喜びの時間があったのだ。それをとりもどす。「けじめ」は、邪心を捨て、自分がしたいことをする、ただそれだけのことである。
この映画のすばらしさは、この風呂場のシーンをはじめ、どのシーンにも押しつけがましさがないことである。それからどうなった、とはけっして言わないことである。そういうことは観客のこころのなかで起きればいいだけのことである。
忘れられないシーンの連続だが、もう一つだけあげるとすれば、兄が車に乗っている弟を外へ呼び出すために、窓に向かって雪の玉をぶつけるシーンである。雪の玉は窓にぶつかり、砕ける。一度、二度。この二度、というのがすばらしい。最初は何が起きたのか弟にはわからない。二度目に兄がしていることがわかる。何か伝えたいのだ、とわかる。もちろん雪の玉だけでは思いは伝わらない。だからそのあと兄と弟の会話があるのだが、それも雪の玉のように、非常に不明瞭なものである。「馬はいい」と言うだけなのだ。とてもいい。思わず涙が出てくる。兄が知っているのは雪と馬。だから雪をぶつける。だから馬を語る。それが兄の人生であり、兄の思想だ。「馬はいいなあ」というのが兄の思想なのだ。そこに兄の人生のすべてがある。
思想とは肉体にまぎれこんだことば、肉体と一体になったことばである。たとえば弟の小学時代の仲間、厩舎の仲間にとっては「大地に根を張るかしわ(?)の木、スズラン花咲く……」という小学校の校歌が思想であり、認知症の母親にとっては「私には東京の大学を出て社長になっている息子がいる。長い間会っていないけれど、もうすぐ会いに来てくれる」が思想なのである。
一人一人の思想が、この映画では揺るぎなく描かれている。香川照之演じる厩舎主のように、取り立ててせりふがない人物まで、その肉体で、表情で、まぎれもなく生きているということを伝えてくる。肉体そのものが思想になっている。
この肉体そのものが思想になっている、という意味では、この映画の絶対的な主人公、馬「ウンリュウ」の体こそ思想である。思想であるからこそ、見る人を引きつける。ばんえい競馬へやってくる人を引きつける。ただ苦しみを耐えて走るだけではない。たてがみを編んで気取る(?)その姿も思想である。
書き始めると、どこまでもどこまでも書きたくなってしまう。書きながら次々に別のシーンが甦ってくる。大好きになってしまった映画である。大好きな、大好きな、大好きな映画である。