詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

根岸吉太郎監督「雪に願うこと」

2006-05-28 22:28:33 | 映画
監督 根岸吉太郎 出演 佐藤浩一、伊勢谷友介、小泉今日子

 非常に美しいシーンがある。登場人物のそれぞれが夢をかけた朝。その光。まだだれもいない競馬場。ただ静けさだけがある。しかもそれはしだいに静かになっていく静けさである。そして雪のつもった街なみ。屋根の雪のまるみ。雪の下からのぞく瓦。これも静かである。不純物がいっさいない。邪念がない。
 ファーストシーンの雪で視界の悪い風景とはまったく逆である。ファーストシーンで東京から帰ってきた弟は携帯電話を捨てるが、その捨てるという行為さえ邪念に満ちている。未練に満ちている。
 これが最後の朝には完全に別なものになっている。弟は雪の玉をつくって屋根に載せる。願いごとがかなうように「おまじない」をする。しかし、その「おまじない」、願いには邪念がない。手塩にかけた馬が勝ちますように、と祈っているのではない。完全に信じきっている。それでも祈るのは、それが自分自身への「けじめ」だからである。「けじめ」をつけるために祈るのである。そして「けじめ」はついている。だから心配などないのだ。
 ハッピーエンディングの映画はハッピーエンドに終わるとわかっていても、はらはらどきどきするものが多い。そのはらはらどきどきをとおして観客は主人公と一体になる。カタルシスを味わう。ところがこの映画はそうではない。まったくはらはらどきどきしない。それぞれの登場人物がそれぞれの夢をかけた結末だが、それぞれに「けじめ」がついている。だからこの映画はほんとうの結末、馬がほんとうに勝ったかどうかなど映像化しない。そんなことはどうでもいいからである。
 このきれいさっぱりとした気分、「けじめ」の美しさが、冬晴れの朝の光にあふれている。とても気持ちがいい。

 この朝の光が美しいのは、それまでの、うじゃうじゃした人間のあり方が丁寧に描かれているからである。ファーストシーンの雪と、最後の朝の光の間に、いくつものできごとがあり、そのできごとを通じて一人一人が「けじめ」を発見する。
 だれもがいらだちをかかえ、不安をかかえ、生きている。どうしていいかわからずに生きている。どうしようもないから他人にぶつかり、他人に甘え、もがく。他人とぶつかることで、他人から何かしらの影響を受け、自分のなかにとりいれていく。そしてそれは、実は自分自身のなかに残っていたものであった。新しいものではない。忘れていたものであった。
 象徴的なシーンがある。
 弟が風呂の蛇口を閉めながら、流れる湯に触れる。そのとき過去がふいに甦る。小川の流れが、ザリガニを仲間といっしょにとったことが。そして忘れていたはずの小学校の校歌が口をついて出てくる。邪心などない子供のときの素直さが甦ってくる。そうした時代があったのだ。ただ、したいからそれをする。したいことができるという喜びの時間があったのだ。それをとりもどす。「けじめ」は、邪心を捨て、自分がしたいことをする、ただそれだけのことである。
 この映画のすばらしさは、この風呂場のシーンをはじめ、どのシーンにも押しつけがましさがないことである。それからどうなった、とはけっして言わないことである。そういうことは観客のこころのなかで起きればいいだけのことである。

 忘れられないシーンの連続だが、もう一つだけあげるとすれば、兄が車に乗っている弟を外へ呼び出すために、窓に向かって雪の玉をぶつけるシーンである。雪の玉は窓にぶつかり、砕ける。一度、二度。この二度、というのがすばらしい。最初は何が起きたのか弟にはわからない。二度目に兄がしていることがわかる。何か伝えたいのだ、とわかる。もちろん雪の玉だけでは思いは伝わらない。だからそのあと兄と弟の会話があるのだが、それも雪の玉のように、非常に不明瞭なものである。「馬はいい」と言うだけなのだ。とてもいい。思わず涙が出てくる。兄が知っているのは雪と馬。だから雪をぶつける。だから馬を語る。それが兄の人生であり、兄の思想だ。「馬はいいなあ」というのが兄の思想なのだ。そこに兄の人生のすべてがある。
 思想とは肉体にまぎれこんだことば、肉体と一体になったことばである。たとえば弟の小学時代の仲間、厩舎の仲間にとっては「大地に根を張るかしわ(?)の木、スズラン花咲く……」という小学校の校歌が思想であり、認知症の母親にとっては「私には東京の大学を出て社長になっている息子がいる。長い間会っていないけれど、もうすぐ会いに来てくれる」が思想なのである。

 一人一人の思想が、この映画では揺るぎなく描かれている。香川照之演じる厩舎主のように、取り立ててせりふがない人物まで、その肉体で、表情で、まぎれもなく生きているということを伝えてくる。肉体そのものが思想になっている。
 この肉体そのものが思想になっている、という意味では、この映画の絶対的な主人公、馬「ウンリュウ」の体こそ思想である。思想であるからこそ、見る人を引きつける。ばんえい競馬へやってくる人を引きつける。ただ苦しみを耐えて走るだけではない。たてがみを編んで気取る(?)その姿も思想である。

 書き始めると、どこまでもどこまでも書きたくなってしまう。書きながら次々に別のシーンが甦ってくる。大好きになってしまった映画である。大好きな、大好きな、大好きな映画である。

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北川朱実「昭和四十五年」

2006-05-28 10:03:16 | 詩集
 北川朱実「昭和四十五年」(「石の詩」64)。散文のように事実を積み重ねてゆき、突然、「詩」が噴出する。

日焼けした一枚の白黒写真
(昭和四十五年四月、上野公園
と裏書きがあるから
出稼ぎ先で花見をしたときのものだろう
ハチマキに地下足袋すがたの父は
男たちから少し離れた石に腰かけて
笑っている

何がおかしかったのか
何か笑えることでもあったのか

突風に
父の残り少ない頭髪は逆立ち
狂ったように空に舞いあがっている

黒ぶち丸眼鏡が
鼻の上で大きく傾いているのは
片方のつるが折れて
ゴムひもを耳に引っかけているからだ

目をあかくして
ゴムの長さをのばしたりちぢめたりするたびに
耳から夕焼け色の水があふれ

 「耳から夕焼け色の水があふれ」。とても美しい。写真が撮影された時間について北川は書いていないが、背後に、突然夕焼けが見えてくる。夕暮れ時の人間の寂しさが見えてくる。笑顔の裏側の寂しさが見えてくる。
 それはつるが折れた眼鏡をゴムひもで代用している寂しさである。そういう姿を家族で共有する寂しさである。人間と人間が非常に接近した寂しさである。何も語らなくてもいい。ただ肉体がそばにある。そのそばにある距離感の、ほんの少しの違いのなかに、そのときのすべての感情を読み取ってしまう「家族」の寂しさである。
 家族はほんとうは寂しくはない。しかし、ほんの少しの違いで寂しさを実感させるものである。そのことが、この詩では、父の「男たちから少し離れた」石に腰掛けている姿、おそらく家族以外には気がつかないだろう「つるの折れた眼鏡」をかけていたときの父のほんの小さな表情のズレから丁寧にすくいあげられている。特に、つるの折れた眼鏡が引き起こす表情の微妙さは家族以外にはわからないだろう。それがさびしい。さびしいとは、自分はそれを知っている、それを共有しているという自覚といっしょに存在する。何も共有するものがないとき、寂しさは存在しない。寂しさは、私ではない誰かを呼び出す「声」なのだろう。

 「耳から夕焼け色の水があふれ」。この単独では特異なイメージが、寂しさの実感としてくっきり見える。そのせいだと思うが、この一行を読みたくて、私は何度も何度もこの詩を読み返した。
 この一行が好き--そういえる作品にであったとき、きょうは詩を読んだ、と実感できる。
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スティプン・スピルバーグ監督『ミュンヘン』再考

2006-05-28 09:57:12 | 映画
監督 スティプン・スピルバーグ 出演 エリック・バナ、ダニエル・クレイグ、キアラン・ハインズ、マチュー・カソヴィッツ、ハンス・ジシュラー

 この映画のキイワードは料理である。料理が殺しと家族を結ぶ。殺し-料理-家庭がシンクロして映画に深みがでる。スピルバーグの狙いは、たぶん、これだ。
 料理と殺人は非常に類似点が多い。ともに決めては素材と手際である。吟味した素材をそろえ、手際よく処理する。そうすれば料理も殺人も完璧である。報復テロを実行する主人公を料理がうまい男に設定した意味はそこにある。
 主人公が助言をあおぐ「パパ」もまた料理が得意である。素材(野菜)から自分で育てている。彼もまた料理と殺人が同じ手際でおこなわれることを熟知している。「パパ」は料理を家族(ファミリー、というやくざ用語の方がいいかもしれない)に振る舞うのが好きである。料理は人と人を結びつける。人が愛し、愛されていることを確かめる絆である。その大切な絆を破壊しようとするものへの報復、それが殺人である。報復テロである。ファミリーを守る、ファミリーの団結を確認するものとして料理と殺人がある。
 実際には、殺しの集団には不完全な素材(人材)が紛れ込んだ。そのために彼らの行動は完璧なものにはならない。ところどころで、ほころぶ。ときどきおこなわれる完璧な殺人(女テロリストを殺すシーンの見事さ)もあるが、たいがいは不完全である。そこに人間の味が出る。それがこの映画の一種の救いになっている。
 不完全な素材のために「ファミリー」は徐々に崩壊する。ひとり、ふたりとファミリーが殺され、脱落していく。そのたびに団結を確認する料理が盛大につくられるが、むなしい飾りにすぎない。そのむなしさの実感が、家族をさらに意識させる。報復テロがさらに報復テロを招き、このままでは「家族」の未来はない。主人公は殺しとは無関係の、妻がいて子供がいていっしょに料理を食べて楽しい時間を過ごすほんとうの家庭へと帰りたくなる。最後には殺しを命じる上司を家に誘いもする。「私の家で料理を食べないか」と。ここにスピルバーグの切実な願いが込められている。料理をとおして伝統を知る、文化を知る。そして絆を深める。そうした生き方への切実な願いを感じる。
 暗く沈んだヨーロッパの色、出演者の凝縮した演技によって、主人公の心境の変化、家庭愛への祈りのようなものは、とてもよく伝わってくる。いわば完璧な映画である。スピルバーグの作品としては『プライベート・ライアン』依頼の傑作である。
 しかし。
 おもしろくない。ぜんぜんおもしろくない。
 私が要約したように、きちんと説明できる映画など映画ではない。映画は、もっと、映像自体でストーリーを破壊していくようでないと楽しくない。
 スピルバーグの作品のなかで私がもっとも好きなのは『未知との遭遇』だが、なぜ好きかというとクライマックスで宇宙船のでんぐり返りがあるからだ。宇宙船が山を越えて姿をあらわす。そのとき宇宙船の天地がひっくり返る。度肝を抜かれる。宇宙船のでんぐりがえりにあわせて、座席ごと自分がでんぐり返った感じだ。こんなシーンは映画のストーリーには関係ない。宇宙船が山越えのときでんぐり返る必要など何もない。しかしスピルバーグは宇宙船のでん繰り返りを撮りたかったのだろう。その欲望がうれしい。楽しい。ただただ笑いたい。
 『ミュンヘン』にはそうした我を忘れてしまう映像がなかった。テーマが違うといえばそれまでだが、私は、強烈な映像がない映画、思わず自分でまねしたくなるシーンのない映画は好きではない。また、殺し、料理には共通点がある、殺しをとおしてしだいに料理にふさわしい家庭に目覚めるというような、ことばにしてしまえる「思想」に私は共感を覚えない。「思想」はことばにならない。宇宙船のでんぐり返りのように、それがどうした、としかいえないもののなかにこそスピルバーグの「思想」と「詩」があると思う。そう信じている。

(先日、『ミュンヘン』はどういう映画かと同僚に問われた。上に書いたように答えた。『ダビンチ・コード』がくだらなかったせいか、『ミュンヘン』がとてもいい映画だったとあらためて思いなおした。ただし、非常によくできた映画だけれど、私は好きになれない。「詩」を感じない。)
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