詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金時鐘訳『朝鮮詩集』

2006-05-04 22:15:28 | 詩集
 金時鐘訳『朝鮮詩集』6(「纜」10)。金時鐘の訳と金素雲の訳(「岩波文庫」「対訳詩集」)が対比されて発表されている。詩そのものも興味深いが、訳の違いもおもしろい。(「対訳詩集」は出版社不明。おそらく 1回目に紹介されているのだろう。)
 朴龍吉の「船出」は故郷を出ていく心情が描かれている。その3連目。先に紹介するのが金時鐘、後が金素雲。(以下同じ。)

捨ててゆくのに心は引かれ
追われる人のようなうしろめたさ
返りみる雲にも風はからまり
行き着く港はいずこの果てか。

去りゆけど のこるみれん
追はれゆくひとの思ひといづれなる、
かへりみる雲にも風は搦むなり
碇(いかり)置くあすの港の ありやなしや。

 金時鐘の訳は3行目までが非常にわかりやすい。1、2行の逆説的な対比がわかりやすい。そのこころを雲と風でとらえなおす描写も美しい。雲に風がからまる、というのは、この1行だけでも「詩」である。「からまる」ということばはこんなふうにつかうのか、と驚かされる。
 4行目が大きく違っている。原文がどうなっているかわからない。どちらが直訳でどちらが意訳かわからない。
 原文を知らずに書くしかないのだが、4行目に限っていえば、私には金素雲の訳の方が心情としてリアルに感じられる。「あすの港」の「あす」が強烈である。「行き着く港はいずこの果てか。」では、そこに描かれている時間が遠い将来のように思えて切実さがかける。「あすの港」はあすさえもわからないという切迫感がある。「ありやなしや」という不透明さも切迫感がある。「行き着く港はいずこの果てか。」では、いずれはどこかへたどりついてしまう感じがする。

 毛允淑の「月のない夜にも」はもっと訳が違っている。1連目の後半。

黙ってほほえみ
黙って樹に寄りかかって
かなりの間
その眼はふるえる星になり
融け合う心を推(お)し量る。

もの言はず 微笑し
もの言はず 樹に倚り
いつしか その眼は星と顫へて
一つの心を数へる。

 金素雲の訳「一つの心を数へる」がとても美しい。「一つの心」と書かれているが、これは星のこころと私のこころがひとつ、合致しているという意味ではないだろう。宇宙が一つ、という意味だろう。宇宙は一つであり、あるときは星になり、あるときは私になる。ここには深い東洋哲学の神髄がある。存在するのは、ただ生成の運動だけである。
 最終連も、金素雲の訳がすばらしい。

わたしは名もない国の
名もない一人の女となり
その眼を空に求めて
そのしずもった声を木立の茂みから聞く。

わたしは 名知らぬ土地の
名もない一人の女、
その眼を 仰ぐ夜空に読み
その音声を 杜(もり)の木の間に聴く。

 これも、夜空を見上げれば夜空が眼になり、木立のざわめきを聴けばそれが声になる、というような意味だろう。すべての存在のなかに私が姿をあらわす、というよりも、ある存在に意識を向けるとき、その存在が私になる、という意味だろう。
 金時鐘は「その眼を空に求めて」と書いているが、そうしたものは「求める」ものではないと思う。
 この詩に描かれている「ボヘミアン」とは定住する土地を持たずにさすらう人ではないような気がする。定住する土地が必要でないのは、それがどこであろうが、意味を持たないからである。ボヘミアンとしての私は、常に、今いる場所で星にも木にも生成する存在なのだ。土地に名前はいらない。ただ「場」があればいい。私が何かに生成するだけの「場」があればいい。

 生成の問題は、イ・グァンス(漢字で表記できない文字があるのでカタカナで書いておく)の「光」を読むと、もっと強く感じる。

牛と私、犬と私、
心でつながって一体なのだ。

牛とわれ 犬とわれ
心によりて一つ身ならずや

 金素雲が「心にによりて」と書いている「よりて」が私にはどうしても「つながって」という感じにはならない。心でつながってというと嘘っぽい。「こころ」というものがあると仮定して、その「こころ」をとおってあるときは牛になる、犬になる、私になる。私は牛にも犬にもなりうるが、牛と犬とに同時になることはできない。だから「牛とわれ」「犬とわれ」という書き方になる。「牛と犬とわれ」ではない。「心でつながって」だと「牛と犬と私」は「心でつながって一体」という文が成り立つと思うが、リ(李)が言いたいのはそういうことではないと思う。
 また、「一つ」という概念の把握が金時鐘と金素雲とではかなり違っているように感じる。「一つ」とは「全体」のことである。「一つ」とは生成がおこなわれる「場」のことである。生成がおこなわれる「場」は「一つ」であり、そこから複数の存在が生成されるが、その複数は仮初めのものであり、生成という運動はまた「一つ」なのだ。「場」と生成の「運動」があってはじめて「一つ」という概念が成立する。
 金素雲が「よりて」と訳していることばが韓国語(朝鮮語)でもともとどういう文字をあてるか知らないが、私の感覚(「纜」に訳されている詩を読んだ限りの感覚でいえば)、それは「色即是空」の「即」なのである。
 「光」の1行目を金時鐘は「万物は光にすがって一つ。」、金素雲は「万物は 光によりて一つ」と訳しているが、私には、これが「万物即是光」として迫ってくるのである。そして「万物即是光」は金素雲の「万物は 光によりて一つ」の方が近いと感じる。

 もっとも、いま私が書いた感想は、原文を知らずに、単に二人の訳詩を読んでの感想なので、たぶんに私ならこう読みたいという願望が先行しているかもしれない。
 ただ、こうは言えるかもしれない。
 金素雲の日本語の方が日本語の歴史の厚みがある。日本語のふくらみがある。「数える」「読む」「聴く」などの動詞が肉体の奥底から動いている。「辞書」の定義をこえる意識に届いている感じがする。それとは意識せずに日本人が接している宗教や哲学に触れている感じがする。
コメント
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