詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ロン・ハワード監督「ダビンチ・コード」

2006-05-20 22:50:56 | 映画
監督 ロン・ハワード 出演 トム・ハンクス

 非常につまらない。映画になっていない。主役は紋章学者のはずである。紋章(図柄)に隠された秘密を探る学者である。「図」(絵)が主役になっていいはずの映画だろう。しかし、この映画では主役は「絵」ではなく「文字」である。
 殺人事件があって、直後に「文字」を読まされる。つづいて文字の謎解き。しかもそれが文字の並べ替えである。トム・ハンクスの意識の動きを文字の色を変えて浮かび上がらせる。なんだ、これは。これが映画が。最初から怒りが込み上げてくる。
 トム・ハンクスが殺人事件の容疑者に仕立て上げられ、逃げながら、謎解きをする。その移動、場所の移動をのぞけば、すべてことばで説明される。つまり、映画として成り立っているのは場所の移動だけである。これでは観光映画である。夜のルーブル美術館は魅力的だし、トム・ハンクスの乗せて女刑事が町中を逆走するのはいかにもフランスぽいが、それだけである。しかも場所が変わるたびに、ご都合主義まるだしで新しい人物が登場し、ことばで事件を説明する。これでは、ひどすぎる。
 謎が「歴史」に絡んでいる、時間に絡んでいるから、ことばでしか説明できないということなのかもしれないが、こんなにことばに頼った映画は近頃めずらしい。(あの「グッドナイト&グッドラック」でさえことばではなく映像として成立していた。)名優のトム・ハンクスでさえ、演技をしている余裕がない。トム・ハンクスが主演をやっているから見に行く観客もいると思うが(私もそうなのだが)、そのトム・ハンクスに見るべきところがない。他の役者はそれ以上に見るべきものがない。
 しかも何を信じるかは、その人次第という結論ではどうしようもない。あまりにも観客をばかにしている。嘘でもいいから、トム・ハンクスはキリストが人間であり、その子孫が生きているということを信じているのか、あるいはそんなことは嘘っぱちだと判断しているのか、それを演技として明確に見せなければ役者をつかって映画にする価値がない。
 原作は小説である。小説はことばでできている。ことばでできている作品がことばに頼るのはいいが、そして、あらゆることをことばを読む人間の判断にまかせるのはいいが、映画は何より映像である。映像で観客に考えさせ、信じ込ませなくてはいけない。この作品では誰もその努力をしていない。ただ原作がベストセラーであることに頼っている。分厚い本を読むのが面倒だから映画で本を読んだ気持ちになってみるかという観客に頼りきっている。
 しかし、こんな作品では、あの部分がわからなかったから本で確かめてみるか、という気持ちすら起きないだろう。今年最悪の映画の一本であることは間違いない。見る価値はありません。時間の無駄です。

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若狭麻都佳『女神の痣』

2006-05-20 14:48:34 | 詩集
 若狭麻都佳『女神の痣』(思潮社)。視覚にこだわっている詩人だ。まわりの存在だけではなく、文字の視覚にもこだわっている詩人だ。たとえば「続・続・二重写しのトロンプルイユ」。

喉には
穴があいて
ことば
から


   抜け
      おちる

 こうした書き方を見ると、ふと疑問が浮かぶ。若狭には、ほんとうに、こんなふうに世界が動いて見えるのか。「色が抜けおちる」というのは存在から色が離れて落下していくというふうに見えるのか。それとも「抜けおちる」ということが親身に実感できなくて、ことばに頼って(あるいは、ことばの表記に頼って)、それを視覚として納得したいのか。私には、どうも後者のように感じられる。
 「色が抜け落ちる」というとき、私は、その色が、ある存在から離脱して落ちていくというふうには感じられない。抜け落ちた色がその存在の足元に落ちているとは感じたことがない。それは目に見えないままどこかへ消えてしまっている。抜け落ちるとは言っても落下ではなく、むしろ浮上して霧散する、どこにも存在しなくなるという感じがする。抜け落ちた色を、その存在のそばに見つけることは私にはできない。見つけるとしたら、その存在の近くではなく、むしろ信じられないような遠く、どうしてこんなところにあるのか、と思うようなところである。ああ、あの色はこんなところに存在していたのか、と発見することはあっても、その存在の足元に抜け落ちた色を見た記憶がない。
 そんなことを考えながら、私は、若狭はことばを見たことを書いているのではなく、見たいものがあって書いている、動かしていると想像する。しかも、ことばは見たいものを見たいものの形であらわしてくれると信じてことばを動かしている。

 若狭は、では何を見たいのか。「ことば」を見たいのだろう。あるいは「ことば」が隠しているもの、ことばでしか言い表すことのできないもの、見えないものが見たいのだろう。ことばで見えないものにたどりつきたいのだろう。たどりついて、しかも、それをことばとして見たいのだろう。「あらまほしき」。

初夏の夕刻。
風の疾さで
ことばが走る
熱が抜けはじめた足首に置き忘れた
懐かしい蝙蝠の
揺らぐ羽音
にわかに溢れてはひらめいて
少しとまどいながら
微笑む誰かが
瞳の隠れ家に
ほんとうの誰かを映している
そこだけは
とても明るい
せせらぎのように舞いながら
幽かに呼んでみる

“キミは…ぼく?”

 「微笑む誰かが/瞳の隠れ家に/ほんとうの誰かを映している」。肉眼で見ることができるのは「瞳」までである。それから先はことばでしか見ることができない。
 そして、そこに若狭が見ようとしているのは……。
 「キミは…ぼく?」と問いかけている。「わたし」ではなく「ぼく」ということばを選んで、問いかけている。「わたし」を直接見るのではなく、「ぼく」という虚構をとおして「わたし」を見ている。そうであるなら簡単だが、そうではなく、若狭は「わたし」ではなく「ぼく」を見たいのだ。「ぼく」はことばでしか見ることのできない若狭である。ことばでしか見ることのできないものに、若狭は自分自身をゆだねている。
 若狭は若狭であること、「わたし」であることを自覚している。たとえば「半身」。

半身の
蝉の姿をした
きみとわたしを
陶然と凝視(みつ)めている
わたしがいる

 そして「わたし」を見たいと望むとすれば、それはこの作品にあらわれているように「わたし」を見つめる「わたし」をこそ見たいのだ。そういう人間にこそなりたい、と言い換えればわかりやすくなると思う。「わたし」は常に存在するが、その「わたし」は理想の「わたし」ではない。ことばでたどりつきたい「わたし」、ことばでしかたどりつけない「わたし」ではない。ことばでしかたどりつけない「わたし」は、「わたし」をみつめる「わたし」である。

 詩集の最後にタイトルとなった「女神の痣」という作品がある。この作品には注釈がついている。「これは、白銀の毛におおわれ異様に光る三ッ目と、頭に一本の水晶の角を持つ美しいフェノメーヌが、わたしに囁いてくれた詩です。」
 「わたし」ではない誰か(ここでは「フェノメーヌ」と呼ばれている)がささやきかけてくれることば、「詩」そのものになりたい、ことばそのものになりたい、という欲求が明確に書かれている。しかも、若狭は、それを「声」として聞くだけでは満足できない、文字として形として、そのことばを定着させたいとたぶん願っているのだろう。ことばを見たい、ことばが見える通りに世界が存在すると信じて若狭は詩を書いているように感じられる。
 ことばは視覚でとらえられる、と信じて若狭は詩を書いているように感じられる。

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フェルナンド・メイレレス監督「ナイロビの蜂」

2006-05-20 02:06:34 | 映画
監督 フェルナンド・メイレレス 出演 レイフ・ファインズ、レイチェル・ワイズ

 アフリカの映像が新鮮で、すばらしく美しい。冒頭に湖の上を跳ぶ鳥のシーンがある。白い影が湖面にも映っている。ことばで書いてしまうと、ハリウッドの監督の映像とフェルナンド・メイレレスの映像の違いがわからなくなるが、ハリウッドの映画とはまったく違った新鮮な映像である。構図そのものが違うのだと思う。意図そのものが違うのだと思う。フェルナンド・メイレレスは美しい構図を探していない。美しいアングルを探していない。どうすれば実際に見たままに映像化できるかを考えているようだ。初めての土地へ行ったとき、私たちはその風景の構図を考えることができない。世界を安定的にとらえる構図が、新しい土地では(あるいは新しい社会では)成り立たない。目はいつもよりも宙ぶらりんになる。視覚がむき出しになる。むき出しにさせられる、無防備にさせられる、ということかもしれない。そのむき出しのままの視線、無防備の視線が風景と出会い、一瞬一瞬、映像をつくりだしていく。それが新鮮で、とても美しい。
 この視線は、そして単にアフリカの風景だけに対してそうなのではないことが映画の展開とともにわかってくる。そこで展開される視線、映像そのものが徐々にストーリーそのものに変化していく。映像がとても濃密な時間となって立ち上がってくる。
 レイフ・ファインズはレイチェル・ワイズが見ているものが何かを最初は知らない。知らないまま、レイチェル・ワイズにひきずられるようにして彼女の見ている世界をぼんやりと眺めている。そうした眺め方があるということを「頭」で認識して、なぞっている。ところが彼女が事件に巻き込まれ、死亡してから、レイフ・ファインズは彼自身の目でレイチェル・ワイズが見つめていたものと向き合うことになる。そのとき彼の目は丸裸である。予備知識がない。世界を見るための「構図」がない。むき出しである。その瞬間に見えたものを手がかりに、そのつど「構図」をつくりだしていかなければならない。どんな全体像になるかわからないまま、見たものを世界として定着させなければならない。この不安な緊張感が、新鮮で美しい映像になる。
 新しい映像がただ単に新鮮なだけではなく美しいのは、ありきたりのことばになってしまうが、それを支えるものが「愛」だからである。
 「愛」とは自分が自分でなくなってしまってもかまわないと決意して他者に向き合うことだが、レイフ・ファインズがレイチェル・ワイズが死亡した後にとる行動はまさにそういうものである。レイフ・ファインズは自分の仕事を失う。大好きだったガーデニングもしなくなる。ただただレイチェル・ワイズが見つめていた世界、それがどんな「構図」をもつ世界なのかを追い求める。レイチェル・ワイズの視線の「構図」そのものを、彼自身の視線の「構図」にしてしまう。そうやって、レイフ・ファインズはレイチェル・ワイズへと還っていく。究極の愛というものがあるとしたら、たしかにそれはこういうものだろう。
 エンディングが悲劇なのに美しいのは、そこには愛が完成したという印象が残るからである。
 それにしても、この社会的に重いテーマ、そして複雑で真摯な愛を、ハリウッドの文法とはまったく違った、大地に根ざした映像にして提出するフェルナンド・メイレレス監督の力強さはすごい。まったく新しい映像の積み重ねが、いままで見ていた世界をひっくりかえす。いままで見えていたものとは違った「構図」となって立ち上がってくる。感動してしまう。

 レイチェル・ワイズはこの映画でアカデミー助演女優賞を獲得している。主演女優賞を獲得した「ウォーク・ライン」のリーズ・ウェザースプーンも、それまでの印象を一新するすばらしい演技だったが、レイチェル・ワイズが主演女優賞にノミネートされていたらどうだったろうか。自己主張を曲げない剛直さと他者への深い愛をはっきりした視線で伝えるとてもいい演技だった。

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