詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(16)

2006-05-12 14:36:37 | 詩集
 『薔薇・悲歌』(1983)にひっそりとした作品がある。「周囲の色も」。

二月は
むろん追憶の季節でもなければ
未練の季節でもない
二月は満ちてくる水のとき
ひと知れぬ痛みをくぐり
仮面を棄て
頬のあたりに思いもかけぬ
出来事がひりひりとにじんでくるとき

この書き出しがほぼ同じ形で最後に登場する。

なぜなら二月は
追憶の季節でもなければ
未練の季節でもない
ひと知れぬ痛みをくぐり
仮面を棄て
頬のあたりに思いもかけぬ
出来事がひりひりとにじんでくるとき
すでに少しずつ
周囲の色も発しはじめて

 大きな違いは「二月は満ちてくる水のとき」が削られ、その後2行が追加されていることである。なぜ「二月は満ちてくる水のとき」は削除されたのだろうか。なぜ渋沢はその行を余分なものと判断したのだろうか。
 「満ちてくる水のとき」その「み」の繰り返し。それは前の行の「未練」の「み」に通じる。「未練」ということばでは言い足りない何かがあって、それを補うために「満ちてくる水のとき」と書いたのだろう。そして、その言い足りないものを、似た行のなかに挟まれた部分で書いてしまったので最後の方は「二月は満ちてくる水のとき」という行を省いたのだろう。

 間にはさまれた行に次の10行がある。

わたしは芸もなく
居あわせた南の人と
島の海辺の熱い樹のはなしをした
熱い樹や
月々の花のはなしをした
近いですね
とその人は言い
そうですね
とわたしも言った
ほかにどんな応答がありえたろう

 この10行が私はなぜか非常に好きである。具体的なことは何も書いていない。居あわせた人を渋沢は「南の人」と書いているが、彼が南の人であるとわかるためには、そこに書かれている以上のことがらがすでに存在したということでもある。そうしたものを省略し、さらに「近いですね」というときの「何が」を省略している。だからこそ、その「近いですね」だけが突然立ち上がってくる。「近いですね」ということばを発する人が立ち上がってくる。それに対してただ「そうですね」と答える。ほかにどんな応答もありえないという。
 ここに何か「未練」そのものが潜んでいるように私には感じられる。
 何か共通する「主語」(「近いですね」の主語)がある。しかし、それはほんとうは「わたし」にとっては近くはない。けれど「そうですね」としか言いようがない。南の人とわたしのあいだには微妙なずれ、感覚の差異があるのだけれど、それはことばで明確にすべきものではない。あるいは明瞭にできない。そうしたものを抱え込んだままじっとしている。それが「未練」の定義である。「未練」でありながら「未練」ではないと言う。そのときのほんとうの未練がここにある。どこからともなく「満ちてくる水」のようなものが。ただし、どこからともなくというのは方便で、ほんとうは「どこから」がはっきりわかっている。
 「思いもかけぬ/出来事」という表現もあるが、実は、思いもかけぬことなどありはしない。すべて「思い」そのものとして立ち上がってくる。
 そんなふうにして2月には、すべてのものが「色」を発し始める。色が形を明確にし始める。2月のなかにある季節(自然)の変化と人間のこころのなかにある「未練」のおだやかなあらわれ方、「未練」が色を発する瞬間のようなものが、ここにはとらえられていると思う。

 さっと読みとばしてしまうのだが、読みとばしたあとで、なぜか再び「近いですね」「そうですね」という対話が読みたくなって読み返してしまう作品である。
 「周囲の色も」の「も」が「何」と「周囲の色も」なのか感じるようにと、ひっそりとささやきかける作品である。


コメント
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