『緩慢な時』(1986)は特徴的な詩集である。主に謡曲が引用されている。引用とは他者との出会いである。他者が完成させたことばと出会い、ショートする。放電する。もちろん他者と出会って、他者のエネルギーを自己の内部に取り込む「直列の詩学」という方法も人によってはありうるだろうが、渋沢のころみているのは他者のアネルギーを利用して「放電」することだ。
冒頭に「穴の設計図」という詩がかかげられている。第2連。
「口」と呼ばれているものが「穴」である。そこへ「誤報につぐ誤報」を投げ込んでいく。「つぐ」は「直列の詩学」の接続と同じ意味である。「誤報」とは直列の詩学の「爆発」あるいは「暴発」のことである。ことばの制御をこえた存在である。接続の意識があるからこそ、「とぎれとぎれ」という切断の意識もあらわれる。接続と切断が、渋沢のエネルギーを増大させ、また放電を経てゆるやかな状態にもどす。ゆるやかを「緩慢」と言い換えれば、それはそのままこの詩集のタイトルにもなる。ただ、この緩慢は弛緩とは違う。意図的にたくまれたものである。
「穴」は放電した渋沢のことばを投げ入れる穴である。「仮死の浜 冥府の海」でこの「穴」が再び登場する。
ここに書かれた「自発的」ということばが重要である。「動きだす」ということばが重要である。直列の詩学は自発的な爆発であった。その爆発は爆発力を制御するものがないという意味において。放電でも、やはり自発的であることが要求されている。渋沢は常に自発的に動くことばを求めている。探している。自発的に動くことば、渋沢(個人)をはなれて、まるでことばそのもののに命があり、その命が自発的に動くように動いていくことばを求めている。
『緩慢な時』は長編の詩で構成されているが、詩集そのものがまた一篇の「長編詩」なのである。最初の作品でつくりだされた時間が次の作品に引き継がれていく。それは自発的な動きである。エネルギーと意味が引き継がれていく。その引き継ぎの象徴が「穴」であり、引用という行為である。
このことを、渋沢は遺伝子に触れる形で語っている。
「穴の設計図」というタイトルは「遺伝暗号は、タンパク質の素材であるアミノ酸をつかまえる“穴”の設計図である」という遺伝暗号の謎を解明する生物物理学の学説からとられている。(それを紹介する新聞記事が引用されている。)蓄えてきたエネルギーを穴にむけて投げ込む。穴がそのなかから有用なものをつかみとり、そこからおのずと育っていく物がある。そういう「夢」が長編詩になっているともいえるだろう。「遺伝」の力、おのずと何かを引き継ぎ、動かしていく力、そういうものがこの長編詩では描かれている。引用されているものが謡曲などであることを考えると、日本の古典、日本語の古典を引き継ぎ、そこから何かが育っていくのを渋沢は願っているともいえる。
これは詩人の「自画像」そのものだろう。「秘密の言語」とは詩にほかならないだろう。
渋沢は、日本語の古典を引き継ぐための複雑な「遺伝子の穴」をこの長編詩で試みたのかもしれない。そうなることを願ったのかもしれない。
*
「穴の設計図」にかぎらず渋沢の作品にはリフレインが多い。「穴の設計図」にはいくつかのリフレインがあるが「秋の夜の/雨の音のなかにひそむ/ひそかな惨劇は」という行が目を引く。耳をとらえる。特に変奏が美しい。
「あらためて」が特に美しい。冒頭の「あ」だけではなく「あらためて」のなかにひそむ「あ」の響きが「秋」の「あ」「雨」の「あ」と通い合い、喉、口蓋に快感が走る。
冒頭に「穴の設計図」という詩がかかげられている。第2連。
もうその難破のゆくえを追うな
追ってみても
どのみちしわがれた夜がしわがれた朝へと
誤報につぐ誤報をざらつく故意の血の色に染めて
迅速に さらに迅速にはこんでゆくだけのことだろう
とぎれとぎれに水があり 野があり 地平があり
地平を蹴やぶりつんざいて
音もなく天地を左右にひき裂く稲妻があり
それらすべてを呑みこもうと待ちかまえている口がある
「口」と呼ばれているものが「穴」である。そこへ「誤報につぐ誤報」を投げ込んでいく。「つぐ」は「直列の詩学」の接続と同じ意味である。「誤報」とは直列の詩学の「爆発」あるいは「暴発」のことである。ことばの制御をこえた存在である。接続の意識があるからこそ、「とぎれとぎれ」という切断の意識もあらわれる。接続と切断が、渋沢のエネルギーを増大させ、また放電を経てゆるやかな状態にもどす。ゆるやかを「緩慢」と言い換えれば、それはそのままこの詩集のタイトルにもなる。ただ、この緩慢は弛緩とは違う。意図的にたくまれたものである。
「穴」は放電した渋沢のことばを投げ入れる穴である。「仮死の浜 冥府の海」でこの「穴」が再び登場する。
歩きながら地球をまるごと引用して
みえない穴に投げこめば
わたしたちのからだは初めて自発的に動きだす
ここに書かれた「自発的」ということばが重要である。「動きだす」ということばが重要である。直列の詩学は自発的な爆発であった。その爆発は爆発力を制御するものがないという意味において。放電でも、やはり自発的であることが要求されている。渋沢は常に自発的に動くことばを求めている。探している。自発的に動くことば、渋沢(個人)をはなれて、まるでことばそのもののに命があり、その命が自発的に動くように動いていくことばを求めている。
『緩慢な時』は長編の詩で構成されているが、詩集そのものがまた一篇の「長編詩」なのである。最初の作品でつくりだされた時間が次の作品に引き継がれていく。それは自発的な動きである。エネルギーと意味が引き継がれていく。その引き継ぎの象徴が「穴」であり、引用という行為である。
このことを、渋沢は遺伝子に触れる形で語っている。
「穴の設計図」というタイトルは「遺伝暗号は、タンパク質の素材であるアミノ酸をつかまえる“穴”の設計図である」という遺伝暗号の謎を解明する生物物理学の学説からとられている。(それを紹介する新聞記事が引用されている。)蓄えてきたエネルギーを穴にむけて投げ込む。穴がそのなかから有用なものをつかみとり、そこからおのずと育っていく物がある。そういう「夢」が長編詩になっているともいえるだろう。「遺伝」の力、おのずと何かを引き継ぎ、動かしていく力、そういうものがこの長編詩では描かれている。引用されているものが謡曲などであることを考えると、日本の古典、日本語の古典を引き継ぎ、そこから何かが育っていくのを渋沢は願っているともいえる。
極微の穴から
無限大の穴までの
穴の輪廻をゆく者は
時に路地うらの酒場などにもあらわれ
いささかは秘密の言語を語り
酔態に沿う
そのつどの白紙のへりから
うつろな哄笑を残して去ってゆく
これは詩人の「自画像」そのものだろう。「秘密の言語」とは詩にほかならないだろう。
渋沢は、日本語の古典を引き継ぐための複雑な「遺伝子の穴」をこの長編詩で試みたのかもしれない。そうなることを願ったのかもしれない。
*
「穴の設計図」にかぎらず渋沢の作品にはリフレインが多い。「穴の設計図」にはいくつかのリフレインがあるが「秋の夜の/雨の音のなかにひそむ/ひそかな惨劇は」という行が目を引く。耳をとらえる。特に変奏が美しい。
あらためて秋の夜の
雨の音のなかの
ひそかな惨劇が窮迫し
「あらためて」が特に美しい。冒頭の「あ」だけではなく「あらためて」のなかにひそむ「あ」の響きが「秋」の「あ」「雨」の「あ」と通い合い、喉、口蓋に快感が走る。