詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(13)

2006-05-08 22:21:01 | 詩集
 『越冬賦』(1977)にはそれまでの渋沢の詩群には見当たらなかったことばが次々と登場する。たとえば「花なくては」。

「閻浮(えんぶ)恋しや」
若菜摘む生田の小野の菟名井処女(うないおとめ)よ
若菜のいのちにいきづいていたきみは
小竹田男(おさだおとこ)と血沼(ちぬま)の大丈夫(ますらお)
いずれ劣らぬふたりの男に恋されて

 日本の古典、古典の変奏。
 そして、それは「直接性」ということばに挟まれるようにして登場する。「花なくては」の書き出し。

年経た
はじめての直接性は邪悪だ
胎盤の蓮華座を離れてから
いくつかの春を花のようにやりすごして
脳髄の鏡板に書き込まれる初めての
直接性はすべて邪悪だ

 「菟名井処女」の恋愛が一通り紹介されたあと、再び「直接性」があらわれる。

「閻浮(えんぶ)恋しや」
南無幽霊成等正覚 出離生死頓証菩提
われらに直接性をあたえよ
胎盤と蓮華座と
ただひとりの恋人をあたえよ

 「直接性は邪悪だ」と断定して、「直接性をあたえよ」と言う。そしてその「直接性」とは「胎盤」「蓮華座」「ただひとりの恋人」と同義のものである。書き出し3行目の「胎盤の蓮華座を離れてから」は「年経た」「いくつかの春を花のようにやりすごして」と同義である。誕生し、年齢を重ねて、という意味だろう。「胎盤」「蓮華座」は子宮と同じ意味を持つだろう。胎児をそだてる場である。胎児を「詩」と読み替えるとどうなるだろう。(私は「詩」と読み替えたい。そういう欲望にとらわれる。)
 「詩」をはぐくむ「場」は古典である。渋沢の『越冬賦』以前の「詩」をはぐくんでいたのは「西洋の古典」だったかもしれない。今、渋沢は、日本の古典と出会っている。そして、それを「邪悪」と断定する一方「あたえよ」とも書く。一種の矛盾だ。しかし、それは「恋」の矛盾だ。恋・愛とは、他者に触れて、自己が自己でもなくなってもかまわないという思いとともに生きるこころ、自己を否定しながら自己を存続させるという矛盾を生きることだ。渋沢は、ふいに、そうしたものに出会ったのだろう。ふいに、渋沢のことばが、深いところで日本の古典とつながっている(日本語なのだから、これは当然のことだが)を自覚し、一種の震えを感じている。「恋」の震えを感じている。

 「ただひとりの恋人をあたえよ」と書いた後、渋沢は奇妙な論理のことばを並べる。

ただひとりの恋人をあたえよ
だがただひとりとはありえぬもの
そして複数とはいまだ来らざる数
あるいはすでに失われて無い数だ
われらは数のうちにありしかも数とはつねに幻想だ
数は邪悪 直接性は邪悪

 「恋は邪悪」と私には読めてしまう。西洋古典の文脈で育ってきた渋沢が日本古典の文脈に生きていることばに出会う。そこで千々に乱れる。



 「直接性」の「直」は「直列」の「直」ではないが、そこにはともに「接続」「接点」「つながり」「接触」というものがある。
 「紐」ということばについて前に書いたが、「直接性」とは「紐」なしに生じた「直列」のことかもしれない。「放電の詩学」と関連づけていえば、それはショート、紐なしの接触かもしれない。
 西洋文脈のなかで直列の詩学でエネルギーをため込んできた渋沢のことば・詩が、日本の古典とショートして放電する。それが『越冬賦』以後の渋沢の展開かもしれない。
 (以上、後日の再考のためのメモ。)
コメント
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