詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「タヒチのような朝霧に」

2006-05-21 15:04:51 | 詩集
 豊原清明「タヒチのような朝霧に」(「ミて」84号)。
 豊原清明の詩にはいつも魅力を感じる。しかし、その魅力を書き表すのはいつも難しい。

大きな風に一掃されて
森は新しく生まれた
変わることは容易
しかしとりまく環境が
変化しても
沈黙していることに
何の変わりはない。
ただ……。
寂しいのだ
夢の中の欲望は、月
タヒチのような
(ゴーギャンの絵だけしかしらないが)
朝霧駅で目をこすりながら
女たちの足取り、仕草を見ていました
すると脳が溶ける、ジンジンジン…。

 「寂しいのだ」以後の展開に驚く。「夢の中の欲望は、月」という行の唐突さに驚く。豊原のなかではきちんとした理由があるのだろうけれど、その理由のようなものがさっぱりわからない。わからないのに「月」そのものが見えてしまう。夜空に一個だけ浮かんだ孤独な月が見えてしまう。しかも、その月は現実の月ではない。今はもう朝で、朝の光が目の前に存在する。一方で記憶は夜にいるままで月を思い出している。そのアンバランスな孤独というか、絶対的な寂しさが、急に立ち現れてくる。
 その後、「タヒチのような」以後の4行は、何度読んでも不思議である。「(ゴーギャンの絵だけしかしらないが)」という率直な声でいったん分断されて、何にかかるのだろう。何を修飾しているのだろう。タイトルから判断すれば「朝霧」を修飾しているようだが、私には「女たち」を修飾しているように感じられる。
 ゴーギャンの絵に他の人が何を感じるか、豊原が何を感じるか、よくわからないが、私はとても健康なものを感じる。肉体の健康さと、絶対的な時間ときちんと向き合える肉体を感じる。「月」の寂しさが、その健康さをひきたてる。「月」の寂しさと「タヒチの女」の肉体的絶対性が、その類似性によって互いに近づくというのではなく(そうであるなら、単純な抒情である)、逆に、絶対的に違った存在であることによって、何かを一気に引き裂く。よくわからないが、豊原の肉体そのものを切り開く。豊原の肉体が、その瞬間、内部から切り開かれていくような感じ--それを豊原のものではなく、私自身の感覚として感じてしまう。
 ここには書かれていない変化、ことばにできない不思議で絶対的な変化がある。変化といいながら、それは普遍の存在でもあると思う。
 「大きな風に一掃されて/森は新しく生まれた」というときの変化は一時的な変化であり、そこには不変なものは存在しない。「変化しても/沈黙していることに/何の変わりもない。」ということばそのままの変化である。「タヒチのような」以後というべきなのか、「寂しいのだ」以後というべきなのかはわからないが、そこで起きる変化は、それとは逆に「沈黙」が語り始めるという絶対的な変化である。「沈黙」が登場し「沈黙」を宣言するようなものである。沈黙がどういうものか、そこでは肉体がどのように他人とかかわっているのか、ということが、ことばにならないまま、突然立ち上がってくる。ゴーギャンをはじめてみたときの、一瞬の沈黙が甦るといえばいいのだろうか。その瞬間、何を言っていいのかわからない。つまり、ふいの沈黙が私そのものとなる。その沈黙のなかで、私はたぶんゴーギャンと出会う。そのあと何かを語るとしても、それはゴーギャンとの出会いというよりはゴーギャンとの別れになるような、そんな沈黙。

 引用した行は、作品の一部である。私が引用した行の後の展開は、もっと美しい。孤独な肉体が、ゴーギャンの絵の清潔さで立ち上がってくる。私の感想は、その美しさを邪魔するだけだから書かない。
 ぜひ、「ミて」そのもので豊原の作品を読んでください。

コメント (1)
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