山田英子『べんがら格子の向こう側』(淡交社)。詩を含むエッセイ集。
書き留められた京ことばが楽しい。とは言っても私は京都育ちではないので、そのことばの細部を理解して「楽しい」と書いたのではない。細部はわからないが、それでも楽しい。それはたとえば、次のようなことば。
「よううつったはるわ」の「うつる」は調和している、似合っているという意味だろう。これは特別京ことばというものではなく「広辞苑」にものっていることばの使い方だ。しかし、最近はあまり使わない。そうしたことばが生きているということが「楽しい」。ことばは単独ではなく、どこかで他のことばとつながっている。その「水脈」のようなものが感じられ、楽しい。
かつて中上健次の作品に親類のことを「一統」と表現してあるのを読んだ。そのとき私は「いっけ」ということばを思い出した。私の田舎の方言では親類を「いっけ」と言う。どういう文字をあてるのかわからなかったが、中上の文を読んだ瞬間「一家」という文字が誘い出されてきた。私の解釈が正しいかどうかはわからないが、「いっけ」は「一家」と書くのだ、と思った。そこから「一統」まではひとつづきである。「一」ということばに昔のひとがこめた思いというものが、その瞬間に私の体のなかに定着した。
山田の書いている「うつる」は「映る」と書くのだろう。「映る」の一義的な意味は「反映、投影」の類だろう。何かがそのまま別の場所に正確に姿をあらわすことだろう。似合うの意味での「うつる」は、装いの持っている色や形がその正確な姿のまま、人の体にそって立ち上がってくるということだろう。装いの命をそのまま正確に生かすということだろう。--こうしたことを、ことばを聞いた瞬間にあれこれ考えるわけではない。そういうことは一瞬のうちに私の肉体の内部で起きることがらである。そして、それが正しいことがどうかは問題ではなく、そうしたあれこれの思いが私の肉体そのものになっていく。その瞬間が私には楽しい。一種の「詩」を感じる。
*
日経新聞5月23日夕刊の「あすへの話題」というコラムで、デンソー会長・岡部弘が「虹の色」という文章を書いている。そのなかで気になることがあった。岡部は信号機の「青」が最近「緑」が強くなったと書いている。どう見ても「青色とはみえない。」
あ、これは変な意見だなあ、と私は思う。信号を緑ではなく、ことばを優先させて「青色」に変更すべきだという意見はそれなりにおもしろいと思うけれど、信号の色を子供たちに「緑」と教えるべきだという意見には賛成できない。
「緑」を「あお」と呼ぶのは日本語では普通のことである。いまは5月。街路樹の「青葉」はけっして「青色(ブルー)」ではない。しかし、これが8月になると誰も「青葉」とは呼ばないだろう。若い感じのするもの、未熟な感じを受けるものを日本語では「青」と呼び、それを「緑」とは明確に区別しているのではないのか。(欧米ではこの区別がなく、「グリーン」と呼ぶことが多いと思う。)想像するに、信号の「グリーン」を見たとき、当時の日本人は「青葉」の「青」に通じるものを感じたのではないだろうか。
どんなことばにも表面的に見ただけではわからないものがある。微妙なものがある。そこには人間の肉体、生活というものが深くかかわっている。そうしたものを大切にしなければ、ことばは豊かにはならない。肉体のなかにのこっている感覚を揺り動かし、その動きにあわせる形でことばそのものを動かしていく、という作業が必要なのだと思う。
岡部弘の文はは詩についての文ではないのだが、ふと、そんなことを考えた。
*
山田英子が書いている「似合う」という意味での「うつる」、それが肉体に働きかけてくる力を持っているのは、そのことばの奥に「時間」が存在するからである。グローバル・スタンダードとは違った個別な時間が存在するからである。均一化にあらがう個別なことばの時間--そこに「詩」がある、とも思う。
山田のエッセイには、京都という暮らしの個別の時間が流れている。そうした時間、たとえば「鰻の寝床」といわれる京都の商人の家の奥行きのあり方は、京都だけではなく他の暮らしの「奥行き」も浮かび上がらせる。私は京都の商人の家は見たことがないが、山田が書いている家の内部のあり方は経験したことがある。どこの暮らしでも、表からは内部が窺われないようにして、内部で「秘密」を楽しんでいる。それは古くからの日本の生活の、多くの人々のありようでもあるからだ。
単に室内の描写としてではなく、山田が描くことばによって、私は私の肉体が反応するのを感じた。そういう「楽しみ」が山田のエッセイにはある。
書き留められた京ことばが楽しい。とは言っても私は京都育ちではないので、そのことばの細部を理解して「楽しい」と書いたのではない。細部はわからないが、それでも楽しい。それはたとえば、次のようなことば。
「地味派手いうのんか、こうとな、おしゃれしといやすこと。よううつったはるわ」
「よううつったはるわ」の「うつる」は調和している、似合っているという意味だろう。これは特別京ことばというものではなく「広辞苑」にものっていることばの使い方だ。しかし、最近はあまり使わない。そうしたことばが生きているということが「楽しい」。ことばは単独ではなく、どこかで他のことばとつながっている。その「水脈」のようなものが感じられ、楽しい。
かつて中上健次の作品に親類のことを「一統」と表現してあるのを読んだ。そのとき私は「いっけ」ということばを思い出した。私の田舎の方言では親類を「いっけ」と言う。どういう文字をあてるのかわからなかったが、中上の文を読んだ瞬間「一家」という文字が誘い出されてきた。私の解釈が正しいかどうかはわからないが、「いっけ」は「一家」と書くのだ、と思った。そこから「一統」まではひとつづきである。「一」ということばに昔のひとがこめた思いというものが、その瞬間に私の体のなかに定着した。
山田の書いている「うつる」は「映る」と書くのだろう。「映る」の一義的な意味は「反映、投影」の類だろう。何かがそのまま別の場所に正確に姿をあらわすことだろう。似合うの意味での「うつる」は、装いの持っている色や形がその正確な姿のまま、人の体にそって立ち上がってくるということだろう。装いの命をそのまま正確に生かすということだろう。--こうしたことを、ことばを聞いた瞬間にあれこれ考えるわけではない。そういうことは一瞬のうちに私の肉体の内部で起きることがらである。そして、それが正しいことがどうかは問題ではなく、そうしたあれこれの思いが私の肉体そのものになっていく。その瞬間が私には楽しい。一種の「詩」を感じる。
*
日経新聞5月23日夕刊の「あすへの話題」というコラムで、デンソー会長・岡部弘が「虹の色」という文章を書いている。そのなかで気になることがあった。岡部は信号機の「青」が最近「緑」が強くなったと書いている。どう見ても「青色とはみえない。」
その理由は、元々色別信号機が日本に入ってきた当初にグリーンライトであったものを、青信号と翻訳してしまったことによるようだ。だとすれば、もっとわかり易い青色でもよいと思うし、そうでなければ、子供たちに青でなく緑と教えるべきだ。
あ、これは変な意見だなあ、と私は思う。信号を緑ではなく、ことばを優先させて「青色」に変更すべきだという意見はそれなりにおもしろいと思うけれど、信号の色を子供たちに「緑」と教えるべきだという意見には賛成できない。
「緑」を「あお」と呼ぶのは日本語では普通のことである。いまは5月。街路樹の「青葉」はけっして「青色(ブルー)」ではない。しかし、これが8月になると誰も「青葉」とは呼ばないだろう。若い感じのするもの、未熟な感じを受けるものを日本語では「青」と呼び、それを「緑」とは明確に区別しているのではないのか。(欧米ではこの区別がなく、「グリーン」と呼ぶことが多いと思う。)想像するに、信号の「グリーン」を見たとき、当時の日本人は「青葉」の「青」に通じるものを感じたのではないだろうか。
どんなことばにも表面的に見ただけではわからないものがある。微妙なものがある。そこには人間の肉体、生活というものが深くかかわっている。そうしたものを大切にしなければ、ことばは豊かにはならない。肉体のなかにのこっている感覚を揺り動かし、その動きにあわせる形でことばそのものを動かしていく、という作業が必要なのだと思う。
岡部弘の文はは詩についての文ではないのだが、ふと、そんなことを考えた。
*
山田英子が書いている「似合う」という意味での「うつる」、それが肉体に働きかけてくる力を持っているのは、そのことばの奥に「時間」が存在するからである。グローバル・スタンダードとは違った個別な時間が存在するからである。均一化にあらがう個別なことばの時間--そこに「詩」がある、とも思う。
山田のエッセイには、京都という暮らしの個別の時間が流れている。そうした時間、たとえば「鰻の寝床」といわれる京都の商人の家の奥行きのあり方は、京都だけではなく他の暮らしの「奥行き」も浮かび上がらせる。私は京都の商人の家は見たことがないが、山田が書いている家の内部のあり方は経験したことがある。どこの暮らしでも、表からは内部が窺われないようにして、内部で「秘密」を楽しんでいる。それは古くからの日本の生活の、多くの人々のありようでもあるからだ。
単に室内の描写としてではなく、山田が描くことばによって、私は私の肉体が反応するのを感じた。そういう「楽しみ」が山田のエッセイにはある。