詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川口晴美『やわらかい檻』

2006-05-22 22:56:18 | 詩集
 川口晴美『やわらかい檻』(書肆山田)。
 「否定」があふれている。たとえば「妹朝」。

 月がうるさくて眠れやしない、とイモウトが言う。その声に夢を断ち切られてわたしは身を起こす。明かりがほんの少しでもあると眠れないわたしたちの部屋では、寝台の隣に寝ているイモウトの顔はもちろん自分の体さえ見ることができない。いつのまにか引き剥がされたシーツの見えない白さの上を、なに、と呟いた声が掠れて滑り落ちていく。イモウトは応えない。

 「眠れやしない」「眠れない」「見ることができない」「見えない」「応えない」。「ない」という否定のほかに、「断ち切られて」「ほんの少し」「引き剥がされた」「掠れて」「滑り落ち」という「肯定」から遠い印象を与えることばもある。何一つ肯定されていないという印象がある。
 「否定」の連続は、さらにつづく。

 仕方なくまた目を閉じ、真っ暗なせいで一瞬前まで目を開けていたことに確信が持てなくなって崩れるように眠りへ傾いていきながら、それはどんな音、と聞いてみたが応える声はなかった。夢の切れ端は消えてもつかむことはできないのに、眠りはすぐに絡みついてきてわたしの体を包み込み、さっきのは本当にイモウトの声だったのか、もしかしたらわたしの寝言だったのだろうか、わからないところへ連れ去っていく。

 「持てない」「なかった」「できない」「わからない」。「仕方なく」「崩れるように」。
 これらのことばは最終的に「わからない」へと収斂している。すべてが否定され、「わからない」という否定でおわる。たしかなことは「わからない」というだけである、というとまるでプラトンだが、それが川口晴美の世界だ。そして、プラトンと川口晴美の違いは、「わからない」のあとの思考、精神、感情の動きにある。
 「妹朝」のつづきを断片的に引用する。

水滴がガラスにたたきつけられて砕けて斜めに伝い落ちていくのを見るのがわたしは好きだった気がする。

わたしはいつまでもあきずにそれを眺めていたと思うけど、あのときイモウトは背後で眠っていたのだろうか。

それとも意地悪な女友達、心配性の従姉妹、もしかしたらイモウト。

 「気がする」「思うけど」「だろうか」「もしかしたら」。どこにも確信がない。そこにあるのは「不安」である。プラトンは「わからない」からといって不安にはならない。わからないということがわかって安心する。わからないからこそ「わかる」を求める。川口晴美はそうではなくて、むしろ不安を定住地のようにして追い求める。

音がする。ガラス窓の向こうの台風のようにそれは線の外側で崩れていく世界の音なのか、そうじゃなくてこの体の内側で轟いている音なのか、わたしにはわからなかった。

 「わからない」は川口晴美の場合、「外側」「内側」の区別にたどりつく。すべては、「わたし」の「外側」のことなのか「内側」のことなのか。それは究極的には、「イモウト」がわたしの「外側」の人間なのか、「内側」の人間なのか、という問いにたどりつく。言い換えれば「イモウト」は実在の人間なのか、それともわたしの内部、想像にすぎないのか。結論をいえば、川口晴美は、イモウトは存在しなかった、イモウトは想像だったという断定する。(この問題は、「KAMIKAKUSHI」という作品で「わたし」とは双子の弟の失踪という形で繰り返される。)
 想像だとするならば、なぜ「わたし」(川口晴美)はそうした想像を必要とするのか。なぜ、必要としたのか。肉体の希薄さが、その根本的な理由だと思う。「妹朝」の書き出しにもどる。

寝台の隣に寝ているイモウトの顔はもちろん自分の体さえ見ることはできない。

 これは「視覚」のことがらだけを書いているように見えるが、私にはとても奇妙な文章にしか感じられない。特に、「見えない」ということを思考の出発点にして、

さっきのは本当にイモウトの声だったのか、もしかしたらわたしの寝言だったのだろうか、わからない

とことばが動いていくとき、私は驚いてしまう。「見えない」(視覚)と「音」(聴覚)の対比は、ごく自然なようではあるけれど、私には非常に不自然というか、不思議な印象がある。
 何も見えないとき、私は、まず手さぐりをする。つまり何かに触る。触覚を頼りにする。自分の体を触り、自分が自分であることを確かめる。そして自分の存在を確信する。そのとき自分が存在しないということなど、ほんの少しも疑わない。これは、私が手さぐりで何かに触ったならば、それは私以外のものが確実に存在すると確信するということでもある。
 「見えない」(わからない)とき、頼りになるのはまず触覚である。触覚は、私の「外側」と「内側」の通路である。川口晴美には、この触覚としての肉体が希薄である。川口晴美のことばからは触覚をもった肉体というものが欠落している。そして、その欠如がすべてのことばを動かしていく。すべてのことばにひとつの色を与える。「不安」それも存在が希薄という不安である。
 そして、この触覚の欠如は、ときには触覚の過敏にも転換する。
 触覚は不思議なもので、たとえば紙の厚さ、薄さ、頑丈さ、弱さというものを実際に厚みに触らなくても、つまり表面に触れただけで感じ取ってしまう。(もちろんその感じには間違いもあるだろうが、間違いも含めて、私たちは、それを明確に感じ取ってしまう。)
 この過敏さは、たとえそれがどんなに「薄い」もの「弱々しいもの」であろうとも、「わたし」の「内側」と「外側」を明確にするなら、それだけで大きな安心に変わりうる。たとえば「壁」。そこにはホラービデオを見つづける「わたし」が描かれている。「うすい壁」の記憶と並列して、ホラービデオを見ることによって起きたこころの変化を描いている。

 恐怖はそこに、わたしの外にあった。(略)こわい。おそろしい。苦しくて痛い。でもそれはわたしの外にあるのだから、ほんとうの朝がくるまでの短い時間をわたしはビデオのリモコンを握ったままベッドにもぐりこんで安心して眠った。

 いま、引用した文にはわざと省略した部分がある。ほんとうは次のようになっている。

 恐怖はそこに、わたしの外にあった。手で触ることさえできる。なんて素敵。わたしはヒロインといっしょに階段を這い上がり、廊下を駆け抜け、クローゼットに身を潜ませる。彼女たちを追いつめ、待ち伏せし、ふいをついて斧や肉切り包丁を振りあげもする。)こわい。おそろしい。苦しくて痛い。

 「手で触ることもできる」。
 何という不思議さ。
 川口晴美は、「イモウト」に触りはしない。自分の体にも触りはしない。しかしビデオのなかの世界には「手で触る」。
 普通のひとは、そういうものを手で触りはしないが、川口晴美は、手で触る、触ったように感じてしまう。そして、それが「外」であることを確認する。

 最初に私は川口晴美には触覚が欠如していると書いたが、ほんとうは川口の触覚は肉体にあるのではなく、精神にあるのだと言い換えるべきだろう。川口晴美は精神で、想像力でイモウトに触る。あるいは姉に、ママに、双子の弟に。そして、その想像の世界で「わたし」の「内側」と「外側」をつくる。そうやって生きている。あるいは「外側」にあるものを全部否定して、「内側」にあるもので世界を満たしたいのかもしれない。
 そうであるなら「やわらかい檻」とは、川口晴美を本物の外の世界から遮断し、川口晴美のこころを守るための「檻」ということになるかもしれない。川口晴美は「檻」に閉じ込められているのではなく、外部からの侵入を拒むために自ら「檻」に入り込み、誰にも川口晴美の肉体を触らせず、ただ川口晴美だけが想像のなかで(精神の力で)他者の肉体に触るということかもしれない。

 とても丁寧にことばが選び抜かれた詩集だけれど、こうした作品を読むのは、私にはすこし(かなり)、つらい。外部に触れた瞬間、その触覚をとおして、自分のなかにあるものが一転して外側に転化してしまうようなものがほんとうの「詩」ではないかなあ、と思う。川口晴美の「詩」は、いわば「虚数の詩」という感じがする。それはそれで大変なことだとも思うが。
コメント
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