詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(18)

2006-05-18 14:51:18 | 詩集
 「梅一輪 一輪ずつ」(『緩慢な時』)。不思議な7行がある。

梅一輪 一輪ずつ
梅一輪 一輪ずつ

緩慢な
じつに緩慢な時が咲きひらいてくる
祖霊
宇宙に悩み

 梅の一輪ずつの移ろいに時間を見ている。時間が「咲きひらいてくる」とは現在という瞬間の中に、それまでの時間が噴き出してくることをいうのだろう。「祖霊」、先祖の霊(過去の時間)が、その瞬間に見えると、渋沢は書いている。このイメージは『緩慢な時』全体に共通するイメージであり、それまでの「直列の詩学」「放電の詩学」とはずいぶん異なる。少なくとも「直列の詩学」では、そこに噴き出す時間が「過去」であるとは想定されていなかったのではないだろうか。逆にいままで(つまり、過去からいまにいたるまで)、ここに存在しなかったものが、新しいものが噴出するというのが「直列の詩学」のことばの運動だった。
 そして、その「祖霊」、過去の時間は「宇宙に悩み」、その結果として時間が開く、充実するという。梅一輪、いまここにある最小のものと宇宙が結びつけられる。直列させられる。直列というよりもむしろ「侵入」と言ってもいいかもしれない。たぶん、「直列の詩学」を「侵入の詩学」と言い換える時なのかもしれない。過去と現在が直列で結びつけられるとき、そこでは「時間」の侵入がある。「時間」は侵入してきて一瞬になる。一瞬は梅一輪の小ささ、はかなさではあるが、それは瞬時にして宇宙でもある。宇宙誕生の「ビッグバン」のようなものかもしれない。ここでは時間ははかれない。「緩慢な時」と渋沢は名付けているが、それは「緊迫の時」「ゆるぎない時」「濃縮された瞬間」とほとんど同じ意味である。「緩慢な時」と呼ぶのは、その瞬間をゆったりとしたもの、ひろがりのあるものとしてとらえたいという意志がそうさせるのである。

 先の7行の後の展開にもおもしろい行がある。

一輪 梅一輪ずつの移りはあり
亡霊のように人の面影も浮かんでくる
わたしのまだ行ったことのない東の都会
西の都会には
過ぎた性器の足跡を古書街に漁る友人や
時間の とりわけ空間の組成に関する
不可思議な図面を引いている友人がおり
それぞれに奇妙な信号を(または呪文を)送り届けてくる

 「奇妙な信号」「または呪文」は詩と読むことができるだろう。多くの人がそれぞれに「不可思議な図面」を描いている。それぞれに宇宙について考えている。そうした図面を渋沢は

時間の とりわけ空間の組成に関する

と定義している。「とりわけ空間の」という定義は、多くの友人は宇宙を「空間」の問題として考えていると語る。渋沢にそう見えるのは、渋沢自身は宇宙を「空間」ではなく「時間」の組成としてみつめたいという思いがあるからではないだろうか。「とりわけ」ということばは、渋沢の意識の中にひそむ志向を間接的に、そう語っている。

 宇宙を、世界を「空間」としてではなく、「時間」としてとらえたいという思いが、このころの渋沢にはあるのだと思う。
 「時間」の不思議さは、いまこの瞬間に過去を思うとき、その過去が「きのう」であっても「500年前」であっても、同じように結びつくことだ。いまときのうを結びつけて考えることと、いまと500年前を結びつけて考えることとの間に、時間的な困難さの差は存在しない。いまはいつでもどんな時間とも直接的に結びつく。(逆の言い方をした方がはっきりするかも知れない。私たちは、「きのう」へも「500年前」へも、けっして行くことはできない。その困難さに差は存在しない。これは「空間」の問題と比較して考えると不思議である。1メートル後ろ、あるいは1メートル先へはすぐに行ける。しかし100キロ離れた場所へはすぐには行けない。「時間」は物理的存在であるけれど、私たちへのかかわり方は「空間」とはかなり違う。特に「過去」は意識そのものに深く関係する。)

 「時間の直列」はほとんど「時間の侵入」と同じである。そこでは時間が重なり合う。重なり合うとき、ある時間と別の時間を隔てるものは何もない。それは「融合」なのか、それとも完全なる一体なのか。

 「梅一輪 一輪ずつ」ということばに誘われるようにして、私は「無」について思いをめぐらしてしまう。混沌としての「無」。すべての「生成の場」としての「無」。そこにあるのは「梅一輪」であると同時に「宇宙」全体でもある。私が梅を見るとき、私は梅になり、私が宇宙を思考するとき私は宇宙になる。
 「梅一輪 一輪ずつ」には謡曲『実盛』からの引用がある。『実盛』を引用するとき、渋沢は実盛になる。重なり合い、一体になり、その瞬間、二人を隔てる「時間」は消滅する。消滅することによって、時間は逆に豊かになる。はっきりと存在し始める。ゆったりとひろがる。「緩慢な時」とは、そうやって実現された豊かな時間のことである。
 「侵入の詩学」ではなく、ほんとうは「消滅する時間の詩学」というべきなのだろう。渋沢は、この作品の後、ゆったりと日本の伝統、文化と融合するが、そのときの基本的な姿勢がこの詩集の中に存在している。とても重要な詩集だと思う。

コメント
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