詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

シネィド・ィーリスィー詩選

2006-05-13 14:11:17 | 詩集
 シネィド・ィーリスィー詩選(熊谷ユリヤ編訳)(「現代詩手帖」 5月号)。
 4篇の作品が訳されている。どれもおもしろい。共通して感じるのは、ことばの展開のなかに時間が噴出してくることだ。今、ここではない時間、しかし、今、ここにある時間に共通するものが瞬間的に噴き出てくる。そして今そのものを攪乱する。それはたとえば「逃避行」のように歴史を題材にとったものでは逆に歴史の一瞬のなかに現代が、現代までの歴史が突入するという形をとる。

わたくしたちの聖なる殉教者、父君たる王の処刑後、
ウォースターの戦いでクロムウェル軍に大敗の後、
正当な世継ぎたる王は、逃避の身となりました--
腐った胡桃の染料で父白の高貴な肌を浅黒く染め
ある時は樵として、ある時は下僕に身をやつして--
西暦紀元一六五一年 夫は王党派のわたくしを
鉄轡の仮面の拷問にかけました。わたくしは
舌を動かしてはならないことを学ばされたのです。

 歴史はしばしば男の(この作品に則していえば、王の、あるいは戦争の)歴史として記述されるが、その影には女の記述されなかった時間がある。その時間が、今、この詩のなかで歴史を描くふりをして、現代に復讐している。シネィド・ィーリスィーの詩は時間の復讐である。

 「塩を称えて」はイラク戦争を批判している。

朝、卵に塩を振りかけている。あれから
一年が経とうとしている。ラジオでは「われわれが直面する
脅威--」のドキュメンタリー。鋭く切り込み
鞭打つ声は、ガラスを粉々にする甲高さ。
イラクの資源が石油ではなく塩だったなら? 湯沸かしの
音も忘れて、数秒間、想像にひたる。ダヴィンチの食卓。
ユダが塩を振った時、魂の救済も零れ、今でも
私たちは、殺しに手を染めようとしている。

インドは「塩の行進」で大英帝国を揺さぶり、独立した。
塩は私たちを作り、私たちを、そこへ導くもの。

 最後の「そこ」とは何を指しているだろうか。「そこ」としか名付けることができない時間である。なぜ「そこ」としか名付けられないか。いたるところに、そのつど、出現するものだからである。
 そしてそこには、いつも愛と憎しみが共存している。

 「遺伝は存在の証」。父と母。その反目。それでも今、「私」がここにいるのは父と母の愛があるから。

父は私の指にいる。けれど、母は私の掌に。
私は両手をかかげ、喜びにひたり眺める--
父母が、この手に存在の証を刻んだことを知っている。

たとえ遠く離れ反目し合っていても、たとえ北半球と
南半球で、別々の恋人と眠っていても、私の指と掌が
触れ合う場で、ふたりは触れ合っている。

 この肉体感覚は、深い。「触れる」は肉体そのものの存在をあらわす感覚だ。触覚がなかったら人間は存在できるだろうか。そんな疑問までつきつけてくる、深い深い行だ。強いことばだ。

コメント (2)
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