樋口信子「やり残した喧嘩は」(「六分儀」26)。詩はいきなりはじまる。いきなりやってくる。たとえば
書き出しの2行。だれのことばなのか(樋口のことばなのか、喧嘩相手のことばなのか)は明確にされない。だれが言ったかは、あまり関係がないからだ。なぜそのことばを思い出したのか、も関係がない。ただことばのつながり方だけが詩にとって問題だからだ。
「やり残した喧嘩」とは何か。結末がついていない喧嘩か。あるいは、まだ始まらなかった喧嘩か。「スペインで」の「で」は場所をさすのか。あるいはテーマをさすのか。「いたしましょう」という丁寧な言い方は、誘いなのか。あるいは、「そんなことはできるはずがない」という返事を予測した拒否なのか。
意味が輻輳する。読者にはその輻輳のありようがわからない。ただ樋口にだけわかっている。その樋口にだけわかっているもの、樋口の肉体になっているものを、樋口は少しずつ明らかにする。
最初に樋口がスペインから「やり残した喧嘩は/スペインでいたしましょう」と絵はがきで言ったのだろう。実際にスペインにいる強み、現実に乾いた道、ひまわり、オリーブを見ている。スペインを実感している強み。しかし、相手は、スペインに行ったことがないのに何でも知っていた。「いつも夢のなかで行っている」ので。その喧嘩相手が、こんどは樋口に「あの時やりのこした喧嘩は/スペインでいたしましょう」と言ってきた。スペインから。
現実の、いまという日常へふいに侵入してきた過去。
樋口は、その過去と現実のまま向き合う。お湯をわかしている。「お湯が沸くまでの間、相手をしてあげるわよ」という感じだ。
このあとが、しゃれている。日常の生活と、「やり残した喧嘩」という非日常がまじりあい、そこから再び樋口は日常へと、日々の生活へともどる。(作品は「六分儀」で読んでください。)そして、それが再び、ほんとうのところは何?という疑問に舞い戻る。
それはほんとうの喧嘩なのか。相手はほんとうにいるのか。それはもしかしたら「過去の樋口」ではないのか。「日々の出口」と「夢の出口」が重なり合うように、喧嘩相手は重なり合い、樋口の肉体のなかで一体になっていないだろうか。
樋口の肉体のなかで一体になっている、一体になっていない。それはしかし問題ではないのだ。肉体のなかで、そんなふうに何かが触れ合う。触れ合って、ことばが動く。その瞬間が「詩」だからである。「詩」に答えはない。ただ誘いがあるだけだ。「……いたしましょう」という誘いが。
*
同じ「六分儀」に鶴岡善久が「木下杢太郎の日記、植物画」というエッセイを書いている。木下杢太郎が夏目漱石に本を贈ったときの様子が紹介されている。その時の漱石についての感想が書かれている。
木下杢太郎とは直接関係ないことだが、この一文に鶴岡善久のこころの動きがあらわれていて楽しい。夏目漱石の直情に反応するのは、鶴岡が「直情」を重視しているからだろう。鶴岡は、木下杢太郎の文章に「直情」を見ている。その「直情」は夏目漱石の直情とは違った形をしているが、通い合うものがある。だからこそ、ふいに誘い出されて「夏目漱石の直情がうかがえる」という文章が生まれる。
こうしたこころの動きに、私は「詩」を感じる。
やり残した喧嘩は
スペインでいたしましょう
書き出しの2行。だれのことばなのか(樋口のことばなのか、喧嘩相手のことばなのか)は明確にされない。だれが言ったかは、あまり関係がないからだ。なぜそのことばを思い出したのか、も関係がない。ただことばのつながり方だけが詩にとって問題だからだ。
「やり残した喧嘩」とは何か。結末がついていない喧嘩か。あるいは、まだ始まらなかった喧嘩か。「スペインで」の「で」は場所をさすのか。あるいはテーマをさすのか。「いたしましょう」という丁寧な言い方は、誘いなのか。あるいは、「そんなことはできるはずがない」という返事を予測した拒否なのか。
意味が輻輳する。読者にはその輻輳のありようがわからない。ただ樋口にだけわかっている。その樋口にだけわかっているもの、樋口の肉体になっているものを、樋口は少しずつ明らかにする。
延々と続く赤茶けた乾いた道の
ひまわり オリーブ コルク樫
うなだれては動かず根を張り
炎々とした空の下
絵はがきを出したわたしより
よく知っているひとがいた
なぜかと問えば
「いつも夢のなかで行っている」
あの時やり残した喧嘩は
スペインでいたしましょう
いまといわれるなら少し待って
やかんのお湯がたぎるまで
湯気の向こうへ
抜け出していきますから
いまなら軽くなって
どこまでも
最初に樋口がスペインから「やり残した喧嘩は/スペインでいたしましょう」と絵はがきで言ったのだろう。実際にスペインにいる強み、現実に乾いた道、ひまわり、オリーブを見ている。スペインを実感している強み。しかし、相手は、スペインに行ったことがないのに何でも知っていた。「いつも夢のなかで行っている」ので。その喧嘩相手が、こんどは樋口に「あの時やりのこした喧嘩は/スペインでいたしましょう」と言ってきた。スペインから。
現実の、いまという日常へふいに侵入してきた過去。
樋口は、その過去と現実のまま向き合う。お湯をわかしている。「お湯が沸くまでの間、相手をしてあげるわよ」という感じだ。
このあとが、しゃれている。日常の生活と、「やり残した喧嘩」という非日常がまじりあい、そこから再び樋口は日常へと、日々の生活へともどる。(作品は「六分儀」で読んでください。)そして、それが再び、ほんとうのところは何?という疑問に舞い戻る。
それはほんとうの喧嘩なのか。相手はほんとうにいるのか。それはもしかしたら「過去の樋口」ではないのか。「日々の出口」と「夢の出口」が重なり合うように、喧嘩相手は重なり合い、樋口の肉体のなかで一体になっていないだろうか。
樋口の肉体のなかで一体になっている、一体になっていない。それはしかし問題ではないのだ。肉体のなかで、そんなふうに何かが触れ合う。触れ合って、ことばが動く。その瞬間が「詩」だからである。「詩」に答えはない。ただ誘いがあるだけだ。「……いたしましょう」という誘いが。
*
同じ「六分儀」に鶴岡善久が「木下杢太郎の日記、植物画」というエッセイを書いている。木下杢太郎が夏目漱石に本を贈ったときの様子が紹介されている。その時の漱石についての感想が書かれている。
はじめて贈られた本の著者に自著の不出来を嘆く夏目漱石の直情ぶりがうかがえる。
木下杢太郎とは直接関係ないことだが、この一文に鶴岡善久のこころの動きがあらわれていて楽しい。夏目漱石の直情に反応するのは、鶴岡が「直情」を重視しているからだろう。鶴岡は、木下杢太郎の文章に「直情」を見ている。その「直情」は夏目漱石の直情とは違った形をしているが、通い合うものがある。だからこそ、ふいに誘い出されて「夏目漱石の直情がうかがえる」という文章が生まれる。
こうしたこころの動きに、私は「詩」を感じる。