監督 ジョージ・クルーニー 出演 ジョージ・クルーニー、デビッド・ストラザーン
アメリカのマッカーシー旋風と戦ったCBSニュースキャスター、エド・マローを描いている。
モノクロである。
モノクロならではの映像と思い、感心したのは、エド・マローが最初に登場し、壇上であいさつする前のシーン。煙草を吸っている。紹介されて壇上へ出ていく。そのとき胸に吸い込んだ煙草か吐き出される。ライトのなかでその吐き出された煙の動きがくっきり輝く。そのとき、エド・マローの肉体がくっくり浮かび上がる。これから自分は意見述べる、それは自分の生涯をかけたことばである、という決意、決意のための深呼吸のような深々としたものがくっきりと伝わってくる。
このシーンで、この映画は完全に成功した。エド・マローの肉体を私は完全に信じてしまった。これからはじまるのは単に歴史としてのエド・マローのストーリーではなく、ひとりの生きた人間の、決意に満ちた生き方を描いているということを確信してしまう。
役者の肉体、その映像というのは、すごい力である。
ひとりの役者が確実に肉体をもってあらわれると、それにつらなる役者も同時に肉体をもち始める。ジャズシンガーのダイアン・リーブスが特にすばらしい。映画のストーリーとは関係なく、というか、ひとつのエピソードが終わるたびに間奏曲としてジャズが流れるのだが、彼女の歌声と肉体が、彼女ひとりで当時の社会全体を画面に呼び込むのである。テレビ局以外の風景というか、記録された映像(ニュース)以外は出て来ないのに、その瞬間に1950年代が姿をあらわす。
モノクロの、余分なものを削ぎ落した感じそのままの映画になっている。
ジョージ・クルーニーがモノクロを選んだ理由は、別なところにあったかもしれない。視覚が色彩で攪乱されない分、耳がとぎすまされる。ことばをくっきりと立ち上がってくる。映画にとってことばはあまり重要な要素ではないと思うが、この映画の場合は、ことばをとおして戦うジャーナリズムを描いているので、ことばが立ち上がってくるように工夫しているのだと思う。エド・マローのジャーナリズムは何を伝えるべきかを、かたくなに語りかけるラストシーンは感動的である。思わず背筋をのばして耳を傾けてしまう。
この映画がすばらしいのは、しかしジャーナリストのことばを立ち上がらせるだけではなく、映像そのものとしてもマッカーシーの間違いがわかるようにきちんと描かれている点だ。ことば、あるいはエド・マローという人物の偉大さだけに頼らずに映画をつくっている点だ。マッカーシーが繰り広げる裏付けのない「情報」、恣意的な論理展開の乱暴さを、この映画は映像として暴いている。同時に、そうしたマッカーシーの間違いを映像としてどう処理すれば明確にできるかという工夫のありよう(報道の仕方)も丁寧に映像として描いている。つまり、映像でジャーナリズム論を展開している。どの映像に、どうコメントするか、映像とコメントの配分をどうするか、など。この処理はあまりにてきぱきしているので(映画という上映時間内に処理されているので)、みごとを通り越してちょっと怖い部分がある。エド・マローのストーリーが前面に出すぎて、当時のアメリカの社会全体の苦悩のようなものがどこかに置き去りにされている感じがする。エド・マローと彼のまわりの人物が立派すぎて、人間の苦悩があいまいになった感じがする。これは、まあ、無い物ねだりの蛇足の感想かもしれないが……。
*
ところで……。
モノクロ映画というのは久しく見ていないので印象があいまいだが、この映画は最初からモノクロフィルムで撮影されたのだろうか。カラーフィルムをモノクロ処理したのだろうか。映画がはじまって最初の方の白の輝きはたしかにモノクロフィルムという感じがするが、途中はちょっと違う感じがしてしまった。光のめりはりが平板な感じがした。映像を見つづけているうちに単に私がモノクロの画面になれてしまったのかもしれないが。
詳しい人がいましたら教えてください。
アメリカのマッカーシー旋風と戦ったCBSニュースキャスター、エド・マローを描いている。
モノクロである。
モノクロならではの映像と思い、感心したのは、エド・マローが最初に登場し、壇上であいさつする前のシーン。煙草を吸っている。紹介されて壇上へ出ていく。そのとき胸に吸い込んだ煙草か吐き出される。ライトのなかでその吐き出された煙の動きがくっきり輝く。そのとき、エド・マローの肉体がくっくり浮かび上がる。これから自分は意見述べる、それは自分の生涯をかけたことばである、という決意、決意のための深呼吸のような深々としたものがくっきりと伝わってくる。
このシーンで、この映画は完全に成功した。エド・マローの肉体を私は完全に信じてしまった。これからはじまるのは単に歴史としてのエド・マローのストーリーではなく、ひとりの生きた人間の、決意に満ちた生き方を描いているということを確信してしまう。
役者の肉体、その映像というのは、すごい力である。
ひとりの役者が確実に肉体をもってあらわれると、それにつらなる役者も同時に肉体をもち始める。ジャズシンガーのダイアン・リーブスが特にすばらしい。映画のストーリーとは関係なく、というか、ひとつのエピソードが終わるたびに間奏曲としてジャズが流れるのだが、彼女の歌声と肉体が、彼女ひとりで当時の社会全体を画面に呼び込むのである。テレビ局以外の風景というか、記録された映像(ニュース)以外は出て来ないのに、その瞬間に1950年代が姿をあらわす。
モノクロの、余分なものを削ぎ落した感じそのままの映画になっている。
ジョージ・クルーニーがモノクロを選んだ理由は、別なところにあったかもしれない。視覚が色彩で攪乱されない分、耳がとぎすまされる。ことばをくっきりと立ち上がってくる。映画にとってことばはあまり重要な要素ではないと思うが、この映画の場合は、ことばをとおして戦うジャーナリズムを描いているので、ことばが立ち上がってくるように工夫しているのだと思う。エド・マローのジャーナリズムは何を伝えるべきかを、かたくなに語りかけるラストシーンは感動的である。思わず背筋をのばして耳を傾けてしまう。
この映画がすばらしいのは、しかしジャーナリストのことばを立ち上がらせるだけではなく、映像そのものとしてもマッカーシーの間違いがわかるようにきちんと描かれている点だ。ことば、あるいはエド・マローという人物の偉大さだけに頼らずに映画をつくっている点だ。マッカーシーが繰り広げる裏付けのない「情報」、恣意的な論理展開の乱暴さを、この映画は映像として暴いている。同時に、そうしたマッカーシーの間違いを映像としてどう処理すれば明確にできるかという工夫のありよう(報道の仕方)も丁寧に映像として描いている。つまり、映像でジャーナリズム論を展開している。どの映像に、どうコメントするか、映像とコメントの配分をどうするか、など。この処理はあまりにてきぱきしているので(映画という上映時間内に処理されているので)、みごとを通り越してちょっと怖い部分がある。エド・マローのストーリーが前面に出すぎて、当時のアメリカの社会全体の苦悩のようなものがどこかに置き去りにされている感じがする。エド・マローと彼のまわりの人物が立派すぎて、人間の苦悩があいまいになった感じがする。これは、まあ、無い物ねだりの蛇足の感想かもしれないが……。
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ところで……。
モノクロ映画というのは久しく見ていないので印象があいまいだが、この映画は最初からモノクロフィルムで撮影されたのだろうか。カラーフィルムをモノクロ処理したのだろうか。映画がはじまって最初の方の白の輝きはたしかにモノクロフィルムという感じがするが、途中はちょっと違う感じがしてしまった。光のめりはりが平板な感じがした。映像を見つづけているうちに単に私がモノクロの画面になれてしまったのかもしれないが。
詳しい人がいましたら教えてください。