詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「グッドナイト&グッドラック」

2006-05-15 23:09:32 | 詩集
監督 ジョージ・クルーニー 出演 ジョージ・クルーニー、デビッド・ストラザーン

 アメリカのマッカーシー旋風と戦ったCBSニュースキャスター、エド・マローを描いている。
 モノクロである。
 モノクロならではの映像と思い、感心したのは、エド・マローが最初に登場し、壇上であいさつする前のシーン。煙草を吸っている。紹介されて壇上へ出ていく。そのとき胸に吸い込んだ煙草か吐き出される。ライトのなかでその吐き出された煙の動きがくっきり輝く。そのとき、エド・マローの肉体がくっくり浮かび上がる。これから自分は意見述べる、それは自分の生涯をかけたことばである、という決意、決意のための深呼吸のような深々としたものがくっきりと伝わってくる。
 このシーンで、この映画は完全に成功した。エド・マローの肉体を私は完全に信じてしまった。これからはじまるのは単に歴史としてのエド・マローのストーリーではなく、ひとりの生きた人間の、決意に満ちた生き方を描いているということを確信してしまう。
 役者の肉体、その映像というのは、すごい力である。
 ひとりの役者が確実に肉体をもってあらわれると、それにつらなる役者も同時に肉体をもち始める。ジャズシンガーのダイアン・リーブスが特にすばらしい。映画のストーリーとは関係なく、というか、ひとつのエピソードが終わるたびに間奏曲としてジャズが流れるのだが、彼女の歌声と肉体が、彼女ひとりで当時の社会全体を画面に呼び込むのである。テレビ局以外の風景というか、記録された映像(ニュース)以外は出て来ないのに、その瞬間に1950年代が姿をあらわす。
 モノクロの、余分なものを削ぎ落した感じそのままの映画になっている。

 ジョージ・クルーニーがモノクロを選んだ理由は、別なところにあったかもしれない。視覚が色彩で攪乱されない分、耳がとぎすまされる。ことばをくっきりと立ち上がってくる。映画にとってことばはあまり重要な要素ではないと思うが、この映画の場合は、ことばをとおして戦うジャーナリズムを描いているので、ことばが立ち上がってくるように工夫しているのだと思う。エド・マローのジャーナリズムは何を伝えるべきかを、かたくなに語りかけるラストシーンは感動的である。思わず背筋をのばして耳を傾けてしまう。
 この映画がすばらしいのは、しかしジャーナリストのことばを立ち上がらせるだけではなく、映像そのものとしてもマッカーシーの間違いがわかるようにきちんと描かれている点だ。ことば、あるいはエド・マローという人物の偉大さだけに頼らずに映画をつくっている点だ。マッカーシーが繰り広げる裏付けのない「情報」、恣意的な論理展開の乱暴さを、この映画は映像として暴いている。同時に、そうしたマッカーシーの間違いを映像としてどう処理すれば明確にできるかという工夫のありよう(報道の仕方)も丁寧に映像として描いている。つまり、映像でジャーナリズム論を展開している。どの映像に、どうコメントするか、映像とコメントの配分をどうするか、など。この処理はあまりにてきぱきしているので(映画という上映時間内に処理されているので)、みごとを通り越してちょっと怖い部分がある。エド・マローのストーリーが前面に出すぎて、当時のアメリカの社会全体の苦悩のようなものがどこかに置き去りにされている感じがする。エド・マローと彼のまわりの人物が立派すぎて、人間の苦悩があいまいになった感じがする。これは、まあ、無い物ねだりの蛇足の感想かもしれないが……。

 ところで……。
 モノクロ映画というのは久しく見ていないので印象があいまいだが、この映画は最初からモノクロフィルムで撮影されたのだろうか。カラーフィルムをモノクロ処理したのだろうか。映画がはじまって最初の方の白の輝きはたしかにモノクロフィルムという感じがするが、途中はちょっと違う感じがしてしまった。光のめりはりが平板な感じがした。映像を見つづけているうちに単に私がモノクロの画面になれてしまったのかもしれないが。
 詳しい人がいましたら教えてください。

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ゲーリー・ソト「農場の詩」(再び)

2006-05-15 15:23:13 | 詩集
 ゲーリー・ソト「農場の詩」(越川芳明訳)(「現代詩手帖」5月号)の感想を書きながら、何かを書き漏らしている気がする。毛虫が鍬で切られる。ちぢんで環のようになる。それがなぜそんなにも美しく見えるのか。ほんとうは哀れな姿なのに美しく見える。太陽の光まで見えてくる。それはなぜなのか。

農場監督が ピューと口笛を鳴らすと
弟と僕は
鍬(くわ)を肩に担ぎ
農場を後にした。
バスのところにもどりながら
ブロークンの英語で ブロークンのスペイン語で
おしゃべりした
レストランの食事にも
ダンスのチケットにも
稼いだ金をつかう気がしなかった

ひび割れたバスの窓ガラスから
僕は綿花の葉を見た
小さな手がさよなら と合図しているみたいだった。
三月は綿花のために長い列を鍬で掘った
土埃が大気中に舞い
鼻の穴に入ってきた
目にもだ
手の爪の先には黄色の土が

鍬がぼくの影の上を
行ったり来たりして 雑草や
太った毛虫が真っ二つにちょん切られ
ちぢんで
環のようになって

太陽が左側にあって
ぼくの顔を射したとき
汗が いまだに
僕の中にある海が
顎に浮きあがり
ポタっと落ちて 初めて
地面に触れた

 自然とは人間が太刀打ちできないものである。そのことを感じる。そして、それを美しいと感じる。自然の非情さが、存在のすべてを美しく感じさせる。
 農業は人間をむき出しにする。自然が相手だから、どうしても人間の肉体そのものが自然と直接的に触れてしまう。
 「土埃が大気中に舞い/鼻の穴に入ってきた」が強烈だ。自然は単に「触れる」のではない。人間に侵入してくる。その侵入を鼻の穴の粘膜がじかに感じる。直接を通り越して、なんとういかむりやり感じさせられる。そんなものを感じたくはない。しかし感じて、交わって、生きていく。それが農業だ。
 こうした繰り返しのなかでつくられる死生観は「無常」へ通じる。人間はやがて鍬でちょん切られた毛虫のように、ちぢんで輪になって、風と一緒に飛んで行くしかない。そうやって自然に、世界に帰っていく。土に触れていると、その還元の感じが直接的に触れてくる。人間も自然の一部だということがよくわかる。
 こうしたことは「貧乏」である方がリアルに感じる。機械ではなく、鍬で、鎌で、自然と向き合う。ほとんど手で向き合うというのと同じだ。体全体をつかって自然に帰るのだ。だから、そこで出会う生な肉体が毛虫であっても、その肉体にこころが反応する。それはほとんど肉体そのものの反応といってもいい。
 ゲーリー・ソトが自然そのものと肉体で交感しているは、最終連の「海」が如実に語っている。

汗が いまだに
僕の中にある海が
顎に浮きあがり

 「僕の中にある海」。
 絶句してしまう。綿花畑で働きながらゲーリー・ソトは目の前の大地、渇いた土や毛虫と一緒にいるだけではない。その足は、そこから遠い遠い(たぶん、遠い)海へとつながっている。足が、手が、肉体が海とつながっている。
 巨大な、それこそ人間の太刀打ちできない世界そのものが、綿花畑で働くという行為をとおして詩人の肉体のなかで完成している。そこには肉体以外の何の装飾もない。「貧乏」の美しさは、その装飾のなさからくる。素手の肉体の美しさ。肉体を飾るものがあるとすれば汗だけである。肉体を磨くものがあるとすれば労働だけである。

 ここから世界がはじまる。その世界をゲーリー・トスは叩いても壊れない堅実なことばにしている。ことばそのものが肉体になっている。

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