詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ベラスケス「ラス・メニーナス」

2006-07-30 23:11:25 | 詩集
 ムリーリョの「貝殻の子供たち」を見ながらベラスケス「ラス・メニーナス」を思い出していた。(大阪の「プラド美術館展」には展示されていない。)
 この絵には膨大な「空白」がある。画布の上半分には人物は描かれていない。ひ左5分の1くらいもキャンバスの裏側である。残りの部分に王女と女官たち、犬、絵を描いているベラスケスが描かれている。そしてその背後、すべての中心にある鏡には王と王妃が映っている。
 とても不思議な絵である。
 ベラスケスは何を描いているのか。
 絵を前にしたとき、ベラスケスは王女と女官たちを描いたと思う。(王の一族の肖像画を描くとき、その群像のなかに画家自身を紛れ込ませる手法はしばしば見受ける。)だが、なぜ、鏡に王と王妃が映っているのか。ベラスケスは王と王妃を絵の中では描いているのではないのか。描くベラスケスのまわりで王女と女官たちが遊んでいるのではないのか。
 もしかするとベラスケスは人物そのものではなく、人物が存在するときの空間、その空気の広がりを描こうとしたのではないのか。描かれている王女たちの前に、王と王妃のいる空間がある。今、人が見ている存在、その存在のまわりにはもっと広い空間があり、そこには何かが存在している。そういうことを描こうとしているのではないのか。
 目をこらせば、部屋の背後のドアが開かれている。男がドアを開いて、壁の向こうの空間を見せている。空間はどこにでもある。空間があれば、そこには何かが存在し、何かが存在するとき、そこにはドラマがひそんでいるかもしれない。
 ベラスケスの描く空間(余白)はそういうことを考えさせる。
 この絵の膨大な余白(空間)は天井を除けば、また不思議なものが見えてくる。壁には幾枚もの絵が描かれている。その絵は何を描いているのか(描いていたのか)、私は今思い出すことができないが、複数の絵が飾られていたはずである。その絵と、王と王妃の映っている鏡の関係は? もしかすると鏡に王と王妃が映っているというのが定説だけれど、それは絵ではないのだろうか?
 そういう疑問も呼び起こす。

 ムリーリョの余白が視線を貝殻に集中させるために存在するのに対し、ベラスケスの余白は視線を見えているもの以外に誘い出す。実際、私はこの絵を見るとき、女官たちを見ていない。女官たちの動きが私には不自然なものに見えてしようがないということもその理由のひとつだ。どの女官たちもある動きの瞬間、わざとその瞬間に動きをとめているとしか思えない。そうした不自然な人間群像をベラスケスが描きたかったとは思えない。絵を見るとき、肉眼では見えない何かをこそ、ベラスケスは描きたかったのではないのか。その肉眼では見えないものを想像させるために膨大な余白を描いたのではないのか。

 (これはすべて想像での感想である。実際にベラスケスの絵を目の前にすれば違った感想が浮かんでくるかもしれない。)
コメント
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