詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

映画「ジャスミンの花開く」

2006-07-01 23:42:24 | 詩集
監督 ホウ・ヨン 出演 チャン・ツィイー

 女の恋愛というのは男にだまされ、ひとりで生きていくということに尽きるのか、といいたくなるような悲惨な映画である。こんな女の3代記をチャン・ツィイーがひとりで演じるのだから、いくら私がチャン・ツィイーのファンでも眠くなってしまう。なぜわざわざ3代にわたって描かなければならない? ひとりだけをもっと深く描けばいいだろうに。
 唯一の救いは、ラストの豪雨の中の出産シーンか。ここにだけは、子供を産むのだ、という強い女の情熱があふれている。チャン・ツィイーが別人のような演技を見せている。始まりから途中は全部見ないで、ラストの10分だけ見ることをお勧めします。
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斎藤澄子『人間がワイングラスになる方法』

2006-07-01 22:55:59 | 詩集
 斎藤澄子『人間がワイングラスになる方法』(思潮社)。ワイングラスのほか、お魚(谷内補記 「魚」ではなく「お魚」)、林檎、消しゴム、ホッチキスなどさまざまの「人間が**になる方法」が書かれている。しかし、ほんとうにワイングラスや魚、林檎になりたくて書いているのかどうか、私にはよくわからない。

この造形おもしろいんじゃない?

という行が「人間がお魚になる方法」にあるが、どうも、そうした一瞬の感覚のおもしろさを狙って書いている作品のように思う。もちろん、そうしたおもしろさ、楽しさを狙って書かれる詩は、それはそれでいいと思う。

ホコロビタまま 歩く
ハナミズキの花 ほろほろ咲いて
失恋に育てられたキリンが泣く

 「私が消しゴムになる方法」の、この3行は楽しい。ただ、思うのは、たとえばこの3行で、「私」(斎藤)はすでに「キリン」になっている。
 引用した部分につづく行では

夕映えの光をなめる
なんと 甘いではありませんか
煙の花輪 首にかけ

 と「キリン」の描写がつづく。「キリン」になっているのに、キリンのまま、「人間が消しゴムになる方法」を書いている。これは、ことばの論理の上から見ると、本当はおかしい。ありえない。そのことに斎藤は気づいていない。「この造形おもしろいんじゃない?」という感じでことばを書いているためだと思う。「**になる」ということがどういうことか、あまり考え抜かれていないのだと思う。
 そうしたことを抜きにして感想を書けば、たとえば「人間がエンゲージリングになる方法」の明朝体で書かれた部分は傑作だし、「人間が地球になる方法」の隷書体で書かれた部分もおもしろい。
 しかし、おもしろいだけであり、斎藤の「思想」になっていない。

 この詩集の最後に「わたしがあなたになる方法」という一篇がある。斎藤がほんとうに「なる」ことを目指しているのは、ここにあるのだが、それまでのいくつもの「方法」がこの作品に結実していない。それまで書いてきたことが、何の役にも立っていないと思う。「この造形おもしろいんじゃない?」というような「思想」では「あなた」にはなれないのである。
 「なる」というのは見せかけることではない。

あなたのジージャンを着る
あなたのトレパンを履く
あなたの野球帽をかぶる
あなたの靴は大きくて合わない
わたしの靴を履く
あなたになれないわたしは
よろよろと書庫に入り
あなたを呼ぶ

 「あなたになれない」という自覚が初めて「なる」ということの意味を浮かび上がらせる。「思想」として斎藤の前に立ちはだかる。好意的に考えれば、斎藤はそれまで何篇もの「**になる方法」を書いてきたために、ようやくここで「この造形おもしろいんじゃない?」という「頭」で考えた技法では何も解決しないことに気がついたのかもしれない。そういう意味では、「**になる方法」は複数書かれる必要があったのかもしれない。
 この作品では、斎藤は「あなた」になろうとしていない。単純に「あなた」を呼んでいる。呼び出して向き合おうとしている。あなたとは何だったか。

退職して以来の読書記録
一九八七年四月より八十八冊
一九九〇年 八十八冊
一九九一年 八十八冊
一九九二年 百三十一冊
一九九三年 百四十冊

 さらに入院し死亡するまでの読書記録が本の冊数で書かれている。これが「あなた」である。
 ここには、奇妙な断絶がある。愛がある。
 本は冊数ではなく、内容が問題である。斎藤は「あなた」が何を読み、何を考えたかを、その本に具体的に触れることで明かそうとはしていない。たぶん、それは斎藤の理解を超えたものとして最初から見つめているのだろう。内容は理解を超えているから、その内容についてはわからない。しかし、読書にかけた情熱はわかる。わかる部分を「愛」でつつむ。あるいは、わからなくたって愛することはできる、といえばいいだろうか。
 「あなた」が好きだった山の名前を羅列した部分は、愛の絶唱である。とても美しい。

利尻山 羅臼山 八甲田山 早池峰山 鳥海山 飯豊山

から始まる5行。5行ついやして、「あなた」を思う。そのとき、斎藤が意志していようがいまいが、斎藤は「あなた」になっている。「あなた」と交わっている。「なる」とは「交わる」ことである。「交わる」ことをとおして、私が私でなくなってしまうことである。(愛とは、私が私でなくなってしまってもかまわないという思いで、他者と交わることである。)

鬱色の帯を締め
あなたの柩の奏でる歌を うっとりと聞いている
潮鳴りのうつろいを 骨のまま泳ぐ魚は
わたし です

 この作品の末尾の4行である。「わたし」は「あなた」にはならず「魚」になっている。これは「矛盾」である。「矛盾」であるからこそ、そこに「思想」がある。斎藤が肉体でつかんだものがある。
 ここから斎藤の本当の詩、「この造形おもしろいんじゃない?」を超えた、命の声が始まると思う。次の作品を読みたい。

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