詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山田英子『夜のとばりの烏丸通』

2006-07-05 21:13:48 | 詩集
 山田英子『夜のとばりの烏丸通』(思潮社)。「通り庭の井戸」に非常に興味深い行がある。

『夜のまに渡れ
かくてのみ日を経れば
(長いこと会うてへんのやから)』

 私が興味深く感じたのは、(長いこと会うてへんのやから)の「こと」である。「長いこと、会っていない」とは標準語(口語)でもつかうが、こんなふうに古典の注釈を書く場合は、たぶん「長い間会っていないのだから」と書くだろう。書きことば「こと」はつかわないだろうと思う。(少なくとも私はつかわない。)
 このことを山田がどれくらい意識して書いているかわからない。たぶん、意識せず、ごく普通に、山田の肉体にしみついたことばをつかったのだと思う。意識するとしたら、京都のことば、山田の肉体になじんだことばで書きたい、ということだろう。「こと」にどんな意味があるか、ということまで考えてつかっていないと思う。
 私が関心をもつのは、その「無関心さ」(無意識さ)である。人は意識的にことばをつかう。同時に無意識的にことばをつかう。そして、無意識につかったことばの方に、その人自身の思想(肉体にしみついた考え)があらわれる。

 「長いこと」の「こと」は標準語では「間」(時間)である。京都ことばでも同じなのか。私は違うと感じた。山田の書いている詩の数々が「長いこと」の「こと」は「間」(時間)という標準語とは少し違うと感じさせるのだ。もちろん「間」(時間)も含まれるが、単純に何日間、何年間という日時の単位でははかれないものを指していると思う。
 では何を指しているのか。「嵯峨野を歩く」を読んでいて、その手がかりをみつけた。

大正時代の末になって
唐突に天皇と認められた
長慶天皇の墓は
まぶしい白砂の向こう
松の緑が異様に鮮やか
にわか造りの小さな御陵に
訪れる人もない
大友皇子は弘文天皇
早良親王は崇道天皇
まがまがしい出来事の
恨み悲しみたちこめて

 「こと」は「出来事」の「事」なのである。時間そのものではなく、その時間にあったさまざまな出来事を指すのだ。長い間会わなかった、その時間の間にいろいろな出来事があった、という意識があって「長いこと会うてへんのやから」ということばが発せられる。したがって、会ったときに取り戻すのは、会わなかった時間の距離(年月、日時)だけではない。それ以上に、その間に起きたそれぞれの出来事、それをつきあわせ、情を交わす、情を深めるのである。それぞれのこころの変化を抱き締めるのである。

 山田はこの詩集で京都の変貌を描いている。今、京都では古い街並みが壊され、新しい街がつくられている。その現場に立ち会って、山田自身というよりは京都の街としての「思い出」を書いている。京都という街になりかわって「記憶」を書いている。たとえば「『空き地』の夜」。

京都 中京 町なかの家並み
詳細地図を見れば「空き地」
表札はぎ取られても
塀ごしに金木犀匂う
見なれた古い町家あり
先ほど挨拶した青白い顔の女は
長年この建物に住んでいる
深夜の通り庭に
かくまわれて人の靴音
むかし鬼殿があったところ
(略)

ビル解体の後は埋蔵調査
囲まれた広い「空き地」は
室町時代の二条殿跡
庭園と龍躍池の一部だった
黒々と口開ける穴は
異界への通底口
わたしの住処は池のほとり
胸にトゲ背にウロコ隠し
龍人が夜毎おとずれ
いたい愛撫
物語りしてかきくどく

 ここで呼び出される「記憶」(思い出、出来事)は過去のものではない。過去には違いないが、「長い間会わなかった」というような「間」のある過去ではない。とういより、呼び起こすとき、そこには何年という年月はさしはさまれない。平安時代に起きたことも、室町時代に起きたことも、明治時代に起きたことも、さらには昭和に起きたことも、時間の隔たる長さとは無関係に「今」と重なり合ってよみがえる。思い出されるのは、常に「こと」(出来事)である。「時間」ではない。
 「こと」は「今」ここに立ち現れる。過去の「時間」に私たちが重なり合うことはできない。しかし過去にあった出来事に重なり合うことはできる。男と女は昔から、同じ「こと」をしてきた。愛し、憎しみ、裏切り、別れ、哀しくなり、ふたたび会う。そのための「通り庭」。そのための「殿」。そのための「龍躍池」……。「こと」には実は過去というものがない。いつでも現在である。その「こと」をすれば、いつでもそれは「今」でしかありえない。
 「長いこと会うてへんのやから」には、深い「時間哲学」が隠されている。「時間」は過去-現在-未来と直線的に流れていて、そこには不可逆的なものが存在すると一般に考えられているが、実は、そうではないのかもしれない。平安の男と女のした「こと」をする。室町の男と女のした「こと」をする。そのとき、今と平安、今と室町を隔てる時間の間は頭では「何年」ということができるが、今、ここにしかない肉体はその隔たりをいっさい感じない。どんな時代の男と女がしたことでも、今繰り返せば、それは今でしかない。「こと」とは、そういう時間哲学に通じる何かである。
 そう考えれば、京都の街の破壊は過去・歴史の破壊ではない。「今」という時間そのものの破壊である。「こと」の破壊である。山田は、私が書いたようには説明していない。しかし、私が感じる山田の肉声は、そう言っている。京都には京都の街がまもりつづけた「こと」がたくさんある。街を壊すことは、そうした「こと」を壊すことである。つまり、それまで生きてきた人間のこころ、いのちのあり方を壊すことである。それは哀しくてやりきれない。そうした切実な思いがあふれた詩集である。

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