詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

明楽四三『カジカの歌』、柳原省三『船内時間』

2006-07-04 23:44:54 | 詩集
 明楽四三『カジカの歌』(編集工房ノア)。淡々としたことばである。飾るということを知らない美しさがある。「救急室の夜」。

五月のある夕方
長男が勤めから帰り
頭が痛い目が霞む吐き気がするという。
妻が病院に電話、私が車で連れて行く。

 「妻が病院に電話、私が車で連れて行く。」という1行のリズムがいい。この行だけに主語がふたつある。妻と私。ふたりが一体となって動いている感じが、とてもよく伝わってくる。明楽は、たぶん、この行を書くとき、ふたりの一体感、さらには家族の一体感をあらわすのだと意識しなかったと思う。無意識の日常がそのまま表現になったのだと思う。その無意識、飾りのなさが美しい。
 このあと詩は、病院での検査、長男の様子をふたたび淡々と描く。異常はなかった。安心したとき、明楽は長男が二歳のとき熱を出して病院へかけつけたことを思い出す。

五十年前の長男の幼い笑顔が浮かび
老いても子どもの面倒を見られる幸せを
しみじみと思う夜だった。

 この感想も飾り気がなくて、すっとこころに入ってくる。長男はこのとき五十二歳になる。明楽は何歳だろう。少なくとも七十歳は超えている。そうした年齢で「老いても子どもの面倒を見られる幸せを/しみじみと思う夜だった。」と書く。これは自分自身への健康への感謝か。それもあるかもしれないが、私はもう少し違ったものを感じた。家族を愛することができる、という喜びをそこに感じた。
 4行目の妻と私の一体感、それに長男が加わった。家族としての一体感、その喜びが、ここにあふれている。親にとっては子どもはいくつになっても(五十二歳にになっても)子どもである。そのことがうれしいのだ。
 いい家族だなあ、と思う。



 柳原省三『船内時間』(土曜美術社出版販売)にも実直なことばが書かれている。

聞いていてなんだか良く分からない話は
たいてい間違ったことをいっているのだ

 「今の世の中」という作品のなかの2行だが、生きる意志、自分は自分の信じたままに生きるのだ、という意志が伝わってくる。
 「詩友について」にも率直なことばが書かれている。

H氏賞を受賞するような詩の名人でも
詩集は見事に売れないのだという
現代詩の世界は
読む人が書く人でもあるという閉回路
ざまあ見ろ
ヘボ詩人のぼくは益々自信を深めてゆく
けれども愚痴は
誰かに聞いてもらわなければ意味がない

 「けれども」がやさしい。ここでは柳原は自分自身のことを語っているのだが、そのとき自分自身のなかに必然的に他人が、詩を書く仲間が入ってきている。詩を書く仲間がいるから「けれども」ということばが、ここに登場するのだと思う。そこに「やさしさ」を感じる。
コメント
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