豊原清明「さ迷う詩の炎」(「白黒目」3)。これは楽しい。傑作である。
他人(と言っても父親だが)が、他人のまま肉体を持って描かれている。父親のことばにはきちんとした脈絡がないようにみえる。しかし本当は明確な脈絡がある。その脈絡は父親にはわかりすぎている。だから省略する。わかっていることを省略してしまうのが人間である。そして、それが省略されていてもわかってしまうのが、これまた人間である。このあたりのことばの呼吸を、豊原はしっかりとつかみとる。そして、そのまま再現する。加工しない。肉体でことばを呼吸し、肉体でことばを吐き出す。こうしたことができるのは、肉体の感応力(というものがあると仮定してだが)が、とてもすぐれているからだろう。
「侘しそうに」は声の響き(肉体をとおしたことば)から感じ取ったものである。肉体は肉体の微妙な変化を感じ取る。他人が侘しい声を出すとき、他人の侘しさを感じ取ってしまうのが肉体である。耳だけで感じるのではない。体全体で感じる。「付け足した。」のひとことが、また、肉体的である。
父親は「夕日はかくれて道なお遠し」と言ったあと、それが明確には息子(豊原)に把握されていないことを感じ取ったのだろう。自分は一日にたとえれば「夕日(夕方)」であるが、「お前は昼間やからの」。それは言いたいことの本質ではない。父が言いたかったのは父が人生の夕方にさしかかっているということだけである。だが、それが明確につたわっていないと感じれば、ことばを付け足す。それはほんとうに、いま、ここにないものを、別の場所から探し出してきて、付けて足すというような行為である。
「付け足す」ということばを、こんなにリアルな手触りのあることばとして感じたのは、これがはじめててある。「付け足す」とは、こういうふうにつかうのだと教えられた思いがする。
豊原はもちろん父親が「付け足した」ことを知っている。なぜ付け足したかも知っている。だからこそ、「昼間」の豊原は、「夕日」の父親をひっぱるように動きだす。
「白髪がおもになった父を連れ」がなんともユーモラスである。あたたかい。この父親は、このあとも何度も豊原の思いと無関係に動く。その無関係さがとてもいい。他人の肉体なのだから、それが豊原の思いのまま動く方がおかしいといえばおかしいが、人はおうおうにして自分の肉体に合わせてくれる肉体を好むものであるが、豊原は、それが豊原の思いと重ならないからこそ、これが父親だと肉体で反応している。
の3行のリズム、「たぎつ」ということばのぶったぎったような響きの鮮烈さ、「孤独」ということばの強さもすばらしいが、それにつづく
がすごい。絶望的なおかしさ、絶対的な笑いが、肉体を攪拌してしまう。この瞬間に、豊原と父の肉体の差異がなくなる。とけあって、ひとつになる。たこ焼きにたこが入っていたということを、二人はそれぞれ別のたこ焼きを食べながら同意する。肉体で同意する。食べることの楽しさ--というものをこの詩は書いているわけではないが、ふいにたこ焼きを食べたくなるような、肉体を刺激することばだ。
ふたりの肉体は融合し、ひとつになり、そしてそこからふたたび、豊原と父の肉体は離れ、無関係なものとなり、反応し合う。肉体の融合があったからこそ、それが生き生きとというのは変な表現かもしれないが、とてもリアルに立ち上がってくる。
特に父の描写がとてもすばらしい。頭のなかのことばで受け止めるのではなく、肉体で受け止め、反応し、それがことばになったものだけを書いているからだろう。
少部数の詩誌とあとがきに書いてあるので、この作品に直接触れる機会のある人は少ないだろう。後半もそのまま引用する。
なんだか淡路島へ行って、鳥ノ山展望台へ登れば詩が書けるぞ、という気持ちになってくる。
一九九一年の淡路島と
二〇〇六年の淡路島。
まったくの豹変に
弱者が…生きにくい世の中に
なったのう。ワシ位の年になると
残りの人生、の後始末しかないのう。
賛美歌「夕日はかくれて道なお遠し」
ってことよ。
父は侘しそうに言って
お前は昼間やからの
と、付け足した。
他人(と言っても父親だが)が、他人のまま肉体を持って描かれている。父親のことばにはきちんとした脈絡がないようにみえる。しかし本当は明確な脈絡がある。その脈絡は父親にはわかりすぎている。だから省略する。わかっていることを省略してしまうのが人間である。そして、それが省略されていてもわかってしまうのが、これまた人間である。このあたりのことばの呼吸を、豊原はしっかりとつかみとる。そして、そのまま再現する。加工しない。肉体でことばを呼吸し、肉体でことばを吐き出す。こうしたことができるのは、肉体の感応力(というものがあると仮定してだが)が、とてもすぐれているからだろう。
父は侘しそうに言って
お前は昼間やからの
と、付け足した。
「侘しそうに」は声の響き(肉体をとおしたことば)から感じ取ったものである。肉体は肉体の微妙な変化を感じ取る。他人が侘しい声を出すとき、他人の侘しさを感じ取ってしまうのが肉体である。耳だけで感じるのではない。体全体で感じる。「付け足した。」のひとことが、また、肉体的である。
父親は「夕日はかくれて道なお遠し」と言ったあと、それが明確には息子(豊原)に把握されていないことを感じ取ったのだろう。自分は一日にたとえれば「夕日(夕方)」であるが、「お前は昼間やからの」。それは言いたいことの本質ではない。父が言いたかったのは父が人生の夕方にさしかかっているということだけである。だが、それが明確につたわっていないと感じれば、ことばを付け足す。それはほんとうに、いま、ここにないものを、別の場所から探し出してきて、付けて足すというような行為である。
「付け足す」ということばを、こんなにリアルな手触りのあることばとして感じたのは、これがはじめててある。「付け足す」とは、こういうふうにつかうのだと教えられた思いがする。
豊原はもちろん父親が「付け足した」ことを知っている。なぜ付け足したかも知っている。だからこそ、「昼間」の豊原は、「夕日」の父親をひっぱるように動きだす。
炎天下、白髪がおもになった父を連れ、
鳥ノ山展望台へと
記憶たよりに進んでく。
そして裏側に入ってしまった。
汗がたぎつ。
孤独がたぎつ。
迷路のように!
でも岩屋のたこ焼きは
たこがちゃんとありましたぜ!
「白髪がおもになった父を連れ」がなんともユーモラスである。あたたかい。この父親は、このあとも何度も豊原の思いと無関係に動く。その無関係さがとてもいい。他人の肉体なのだから、それが豊原の思いのまま動く方がおかしいといえばおかしいが、人はおうおうにして自分の肉体に合わせてくれる肉体を好むものであるが、豊原は、それが豊原の思いと重ならないからこそ、これが父親だと肉体で反応している。
汗がたぎつ。
孤独がたぎつ。
迷路のように!
の3行のリズム、「たぎつ」ということばのぶったぎったような響きの鮮烈さ、「孤独」ということばの強さもすばらしいが、それにつづく
でも岩屋のたこ焼きは
たこがちゃんとありましたぜ!
がすごい。絶望的なおかしさ、絶対的な笑いが、肉体を攪拌してしまう。この瞬間に、豊原と父の肉体の差異がなくなる。とけあって、ひとつになる。たこ焼きにたこが入っていたということを、二人はそれぞれ別のたこ焼きを食べながら同意する。肉体で同意する。食べることの楽しさ--というものをこの詩は書いているわけではないが、ふいにたこ焼きを食べたくなるような、肉体を刺激することばだ。
ふたりの肉体は融合し、ひとつになり、そしてそこからふたたび、豊原と父の肉体は離れ、無関係なものとなり、反応し合う。肉体の融合があったからこそ、それが生き生きとというのは変な表現かもしれないが、とてもリアルに立ち上がってくる。
特に父の描写がとてもすばらしい。頭のなかのことばで受け止めるのではなく、肉体で受け止め、反応し、それがことばになったものだけを書いているからだろう。
少部数の詩誌とあとがきに書いてあるので、この作品に直接触れる機会のある人は少ないだろう。後半もそのまま引用する。
鳥ノ山…
足の関節を折り
帽子を忘れたから「禿げる! 」
父は叫び 僕はいたたまれなくなって
石の階段に座った。
そこは墓場だった!
不吉なものを感じて
見るな!
墓を見るな!
柩をもって
お経をあげてくる一団
墓の周辺をはいかいしている
そうしきや!
そうしきや!
そうしきや!
父は3回、叫んでアアと落胆した。
僕たちはフェリーのあの岩屋まで
戻ってふたたび舟の人にきき
登っていったら
やっと鳥ノ山展望台!
かんかんと太陽がふりそそぐ
ベンチに坐って
ハンカチを頭に乗せた
父を撮影した。
1991年の時、好きだった
田んぼもコンクリートになっていた!
茶間川を見つめながら、
フェリーに乗って
明石へ帰る
日暮れても尚人類に「道」はない
日暮れても尚僕は詩を唄おう
僕の心には野原の綿がしとしとと、漂う。
小さな夢の、
炎が走る!
なんだか淡路島へ行って、鳥ノ山展望台へ登れば詩が書けるぞ、という気持ちになってくる。