詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

麻生直子『足形のレリーフ』

2006-07-02 15:11:42 | 詩集
 麻生直子『足形のレリーフ』(梧桐書院)。冒頭の「発掘」がおもしろい。北国の島。火焔土器を発掘している男と会い、話をする。土器は、男たちが狩りや漁に出ている間に、女たちがつくったものだと言われているが……。

  女のヒトが その水甕を造ったという証拠はどんな
  ふうに 判明できるのだろう たとえば 造りかけ
  の容器を手にしたまま パタリと倒れて そのまま
  の女のヒトたちの骨が いくつも発掘されたとか?

男は パスタ入りの白い皿を両手にして
パタリと倒れるしぐさをした
瞼まで閉じている

 たしかに土器を女がつくり狩りや漁を男がしたという証拠はないだろう。そう私たちが信じ込んでいる(思い込んでいる)だけなのかもしれない。
 私がおもしろいと感じるのは、そういうことばを麻生自身が語るのではなく、他者に語らせていることである。ここに麻生の詩人としての正直さがあらわれている。
 どんな事実、たとえばこの詩集に出てくる奥尻島の津波被害にしろ、そこには、そこで生きた人の数だけ事実があり、真実がある。そうしたことに対して私たちはいろいろ想像することができる。しかし、麻生は、想像はしない。想像は創造につながる。ことばの創造は捏造につながる。想像を拒み、ただ耳を傾け、発せられたことばを記録する。あるいは、実際に出会った人々の生き方を記録する。

 「発掘」の詩に戻る。
 男のことばは麻生を驚かしたはずである。驚いたから、それが記憶に残り、記録として書かれた。
 記録のことばは、対象と、記録する人間の両方を伝える。私はまず記録された対象に目を奪われる。土器を発掘しながら、「土器は女が造ったという証拠は何もない」と語る男の発想の豊かさに驚かされる。しかし、本当に驚くべきなのは、それを記録することばの正確さである。麻生は、そのことばに対して、批判も肯定もしない。ただ記録し、そのことばが麻生を運んでいった先、「夢」のような感想を控え目にそえるだけである。

そっと抱きよせ
沖積層のやわらかな火山灰に埋もれていたい
いとおしい水甕のヒミツのカケラ

まだ発掘されていないけれど

 この控え目な感想は、発掘の当事者が麻生ではないこと、土器をつくった人間が女である証拠は何もないと言った人間が麻生ではないことを明確に記す。
 麻生は他人のことばを「横取り」はしない。どんなことばにも、そのことばを発した人間がいて、その人間にはその人自身の時間が流れている、蓄積されている。他人のことばを「横取り」すれば、それは他人の生きた時間を「横取り」することになるということを知っているからだ。
 これはまた、他人の時間に勝手なことばをつけくわえれば、同じように他人の時間を乗っ取ることになる、という意味でもある。
 麻生は自己と他者をくっきりと区別して認識する。その上で、他人のことばに耳を傾ける。そして麻生に理解できることばを記録する。控え目に感想を書く。感想を書くことで、ゆったりと他者と交流する。そこに、ひとつの社会、人間が生きている時間が浮かび上がってくる。そうなるように、ことばを、自制しながら動かしている。
 その「自制」の力となっているのが、麻生の「日常」を見つめるたしかな視力である。「発掘」では、それはたとえば「パスタ入りの白い皿」である。古代の土器について麻生と男は話している。そのとき、しかし、現実は「今」であり、「今」を印づけるものが「パスタ入りの白い皿」である。そうしたものをきちんと踏まえて、男が「瞼まで閉じている」ところもきちんと見つめて、その上で、「そっと抱きよせて」から始まる行をつづける。そのとき、その夢想は、「瞼まで閉じている」男の夢想にも、麻生自身の夢想にもなって、ゆったりと交流する。そこに「詩」が生まれてくる。
 「詩」は現実を見つめないと、生まれて来ない。「詩」は他者と出会い、他者を正確に描かないことには生まれて来ない。麻生は、そう信じ、それを確実に実践している。

見知らぬ人びとのやさしさ
底無しの淋しさと口惜しさ
折おりの喜びや愉しみを 風景ではなく
あなたの日常に重ねて伝えることができただろうか

 この4行は「よみがえる故郷・奥尻島」に出てくることばだが、麻生の夢は、すべてのことば、すべての「詩」を日常に重ねるということかもしれない。
 古代の土器は女が造っていたというのは事実だろうか。その証拠はあるのだろうか。その疑問を「日常」と重ねるとき、何が見えてくるだろうか。発掘の体験者しかわからないことば、実感のこもったことば、それと向き合い、そこから他者の日常と向き合い、自分の日常を見直す。その過程で、本当の人間と人間の交流が生まれる。そこから本当に人間が人間として生き始めることができる。
 そのために、麻生は、ただただ正直を実践している。
コメント
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