詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

倉橋健一「パンの精」

2006-07-08 14:35:19 | 詩集
 倉橋健一「パンの精」(「火牛」第五十七冊)。不思議な詩である。そして、不思議に怖い。

砂浜に降りていってしゃがみ込んで
〈曾(ひい)〉の字を書いて遊んでいたら
椿の棒をついた媼が近づいて
おまえのひばばだよ、ひばばだよ、
ついて来な という
もぐもぐする口元は
よく生きていたな、生きていたな、
といっているようにも見える
そこで私は立ち上がるが
おばばの胸あたりでぴたり とまってしまった
背伸びをしても伸びないのだ

 「書く」という行為は何かを呼び出す行為である。「ことば」を発するという行為は何かを呼び出す行為である。これはしばしばいわれることである。実際、だれもが書くこと、ことばを発することで、今、ここにないもの(存在しないもの)を呼び出し、何らかの対話をするのだと思う。
 「曾」の文字を書いたら、曾祖母があらわれた、までは、なんとなく自然な成り行きに感じられる。しかし、次が怖い。

もぐもぐする口元は
よく生きていたな、生きていたな、
といっているようにも見える

 「よく生きていたな、生きていたな」は誰のことばだろうか。曾祖母のことばだろうか。そうであるなら、論理的には不自然である。子どもが曾祖母に対していうのなら、人間の寿命からいってありうることだが、老人が子どもに対して「よく生きていたな」というのは、特別な事情がないかぎり、不自然である。
 「いっているようにも見える」が重要なのだと思う。「ようにも見える」というのは、倉橋のこころの動き、精神の動きである。「ようにも見える」ということは、実際は、そんなことは言っていない(そんなことばは聞こえない)ということである。
 ということは、「よく生きていたな、生きていたな、」とは実は倉橋自身のことばである。声である。「よく(曾祖母は)生きていたな、生きていたな」と倉橋は思わずこころのなかで呟くが、それがそのまま自分の声ではなく、他者(曾祖母)の声になる。自他の区別がなくなる。
 ここでは倉橋は積極的に正常な世界から逸脱していくのである。自分の精神でそれを選択して正常な世界から逸脱する。つまり、実際には曾祖母はいないにもかかわらず、いるかのように行動する。「よく生きていたな」と言っていないにもかかわらず、言っているかのように(聞こえたかのように)行動する。こころを、そういうふうにしむける。

 「ように」が、この作品のテーマだと思う。「ように」が怖いのは、実際は、そうではないからである。現実は、「ように」とは違っている。にもかかわらず、「ように」をこころは選び取る。

 いったん「ように」という世界を選択したために、倉橋は、現実から逸脱し、非現実から戻ってくることができない。身長も、子ども時代のものに戻ってしまう。
 その世界で、倉橋は、曾祖母が作ってくれたパンを食べる。自分の形をしたパンを食べるはめになる。子どもの論理、というか、子どものことばの世界が倉橋を、そんなふうにしむける。子どもにとって、ことばと現実は一体となっている。ことばが現実とは違っているということはありえない。「ように」は子どもにとっては、そっくりそのまま現実であり、差異はない。「嘘」はありえない。曾祖母が「おまえを象(かた)どったそっくりパンを焼いてやる」といえば、出てくるのは「そっくりパン」以外の何ものでもない。ことばを信じる純真な精神が、倉橋を非現実の世界に閉じ込めてしまう。
 私たちは、知らず知らず無意識のうちに、ことばが「嘘」であることを学び、「非現実」からのがれる術も無意識に獲得する。しかし、子どもはそうすることができない。その思い出が、ここに描かれている。

私が私のかたちを食べる戦慄!
は 目前だ

 ことばを信じる。ことばにすれば、それが現実になる。それは、自分で自分の意識(自分そっくりのもの)を「食べる」ことにつながるかもしれない。これは、ある意味では、冷静な自己客観化であり、自己批判かもしれない。
 だが、そうした頭で考えた何かではなく、体が反応してしまう怖さがこの詩にある。結末部分に、自己批判とか自己客観化というものではないものを感じてしまう。怖さを感じてしまう。それは純粋さの恐怖である。純粋なものは、怖い。
 たぶん、それは「ように」の世界を知ってしまった人間の悲しみ、苦悩があるということなのだと思う。「ように」の力を知ってしまったら、もうことばが連れて行く世界へ行ってしまうしかないのである。そこで生活するしかないのである。そこで、喜びも恐怖も味わうしかないのである。
 詩人であることからのがれることはできない。



 北川有理「かげふみ」(「火牛」第五十七冊)は、やはり子どもとことばが主題になっているが、こちらは怖くない。「多少の技術と若干の邪気がいる」「反芻はついに反省と出会わない」など、ことば遊びが繰り返されるが、それが「影踏み」という肉体の運動と重ならないからだと思う。ことばが頭のなかで選ばれたものだからにすぎないからだと思う。

コメント
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