豊原清明「象に黒塗りする」(「白黒目」3)。
豊原のことばは独自のリズムを持っている。ことばの凝縮と解放のバランスが自然に肉体感覚を呼び覚まし、笑いを誘うようになっている。「象に黒塗りする」の冒頭。
最初の3行は「漢文」のリズムである。漢文といってももちろん読みくだし文ではあるが。だからといって豊原は漢文のリズムで全体を書こうとはしない。そうしたリズムは現代にも残っているが、そのリズムで現代を描くことにはむりがある。もちろん漢文の文体を確立し、それで詩を書けばそれはそれで厳しい現代批判になるだろう。しかし豊原はそういうことはしない。豊原が目指しているのは意識(精神)を優先させて、ある意識からみれば現実はどういうものであるか、という批判を詩で書いているわけではない。豊原は自分のなかにあるリズムを外へ引き出す。そして、そのときいっしょに引き出されてくる肉体の解放感を楽しむ詩人だからである。(もちろん、そうした姿勢がそのまま現代批判にはなるが、それは豊原の意図したことではない。どういうことであれ、個人が個人の肉体をそのままさらけだせば、そういう肉体のあり方を抑圧している社会が見えるから、そこには現代批判がひそむが、それはまた別の問題だ。)
「心の中の艶なる部分」とは傷ついていないこころの純粋さだろうか。それが天地を刺して雲に成る。この「成る」がおもしろい。心の中のものが外へ出ると「変形(変身)」してしまう。それを平然と「成る」と言う。まるで最初から「成る」ことを目指していたようなさわやかさがある。豊原はいつでも何かにさせられるのではなく、何かに「成る」というふうに自分の肉体を動かしていくのだろう。そこに不思議な明るさ、軽さがある。肉体が解放されると感じるのは、この明るさ、軽さのためである。書き方次第では暗く、重くなることを豊原は軽く、明るく書くのだ。
しかし、どんなに明るく、軽くふるまっても、「傷」ついてしまうものがある。「心の中の艶」は「雲」になることで、どんなふうに傷ついたのか。「病を押して風の陣」の「病を押して」には「成る」ことの困難さが手短に書かれている。何かを隠したまま、書かれている。「傷」が隠されているのだ。
ここにはその「隠されたもの」が隠されたまま書かれている。何が「かすかに鳴る」のだろうか。主語が省略されている。書いた豊原にしか、何が省略されているかわからない。そして、豊原自身は省略したという意識がないだろう。書かなくてもわかるから書かなかったとしか考えないだろう。だからこそ、その書かれなかったことばが大事だ。前後の文脈からことばを探せば、「心の中の艶」になるだろう。「雲」に成った心の中の艶が、かすかに鳴っている。風に吹かれて鳴っている。そう読むとき、「成る」と「鳴る」が重なり合い、不思議な風景が見えてくる。心の中の艶の小さな悲鳴が聞こえてくる。
その悲鳴を「詩」と呼んではいけないだろうか。
豊原は、そこに豊原の「詩」を隠している。それが「詩」であることが豊原には自明のことだから、豊原は「詩が」と主語を書くことを省略してしまったのだ。
豊原の本当の「詩」は夢の中で封鎖された門の前で、かすかに鳴っている。その「鳴っている」は「鳴いている」であり、同時に「泣いている」なのだと私は感じてしまう。
そうした「傷」を隠したまま、豊原は明るく、軽く、生き続ける。
ここでは「飄々とした詩を愛」することと、「愚か者」が同じ意味で書かれている。現代ではたしかに飄々とした詩のことばが社会を動かすということはないだろう。飄々とした詩は役立たずである。それを愛することは愚か者のすることだろう。自覚して、豊原はそう「なる」ことを選ぶ。
「傷」は飄々とした詩を愛することのなかに隠したまま、愚か者、役立たずを選びとる。そこには本当は「傷」としての「詩」を守るというひそかな行為もひそんでいるかもしれない。
こうしたことができるのは、たぶん豊原には肉体に対する強い信頼があるのだと思う。「詩」はどこかでかすかに鳴っている。泣いている。そしてそれは、ことばでつなぎとめるものではなく、肉体でつなぎとめるものなのだ。
肉体はひとりひとり違う。それは触れ合うことはできても完全に混じり合うことはできない。しかし、本当か。実は、混じり合う。触れ合うときの「感触」のなかで溶け合い、ひとつになる。「詩」もそれに似ているだろう。
肉体がそこにある。そして、その肉体のなかをことばが通って出てくるとき、「夢の中で封鎖された/門の前」ではなく、肉と骨と血でできた見えない門の前で、こころが泣くのだ。そのかすかな声は肉体が触れ合いながら、かすかに感じ取るものである。
オヤジの考えたことばはここには書かれていない。省略されている。それは「詩」である。豊原にとって自明であるからこそ、豊原は省略したが、誰にとっても自明のものである。いったん書かれてしまえば「ああ、そうだった」と読者のだれもが納得するしかないことばである。そうしたことばを「ああ、そうだった」と私たちが感じるのは、実は、そのことばが日々私たちが肉体のなかで繰り返していることばだからである。ことばにはしない。しかし肉体で繰り返している。そっとこころのなかにしまいこんでいる。
そうしたものがあることを、豊原のことばは、いつも笑いのなかで広げてみせてくれる。ことばではなく、肉体としてみせてくれる。そこから先、ことばを実際に探すのは、たしかに一人一人の読者の仕事なのだから。
豊原のことばは独自のリズムを持っている。ことばの凝縮と解放のバランスが自然に肉体感覚を呼び覚まし、笑いを誘うようになっている。「象に黒塗りする」の冒頭。
心の中の艶なる部分。
天地を刺して雲と成る。
病を押して風の陣。
夢の中で封鎖された
門の前、かすかに鳴る。
白いモンペを着て
飄々とした詩を愛し
愚か者になりましょう
最初の3行は「漢文」のリズムである。漢文といってももちろん読みくだし文ではあるが。だからといって豊原は漢文のリズムで全体を書こうとはしない。そうしたリズムは現代にも残っているが、そのリズムで現代を描くことにはむりがある。もちろん漢文の文体を確立し、それで詩を書けばそれはそれで厳しい現代批判になるだろう。しかし豊原はそういうことはしない。豊原が目指しているのは意識(精神)を優先させて、ある意識からみれば現実はどういうものであるか、という批判を詩で書いているわけではない。豊原は自分のなかにあるリズムを外へ引き出す。そして、そのときいっしょに引き出されてくる肉体の解放感を楽しむ詩人だからである。(もちろん、そうした姿勢がそのまま現代批判にはなるが、それは豊原の意図したことではない。どういうことであれ、個人が個人の肉体をそのままさらけだせば、そういう肉体のあり方を抑圧している社会が見えるから、そこには現代批判がひそむが、それはまた別の問題だ。)
「心の中の艶なる部分」とは傷ついていないこころの純粋さだろうか。それが天地を刺して雲に成る。この「成る」がおもしろい。心の中のものが外へ出ると「変形(変身)」してしまう。それを平然と「成る」と言う。まるで最初から「成る」ことを目指していたようなさわやかさがある。豊原はいつでも何かにさせられるのではなく、何かに「成る」というふうに自分の肉体を動かしていくのだろう。そこに不思議な明るさ、軽さがある。肉体が解放されると感じるのは、この明るさ、軽さのためである。書き方次第では暗く、重くなることを豊原は軽く、明るく書くのだ。
しかし、どんなに明るく、軽くふるまっても、「傷」ついてしまうものがある。「心の中の艶」は「雲」になることで、どんなふうに傷ついたのか。「病を押して風の陣」の「病を押して」には「成る」ことの困難さが手短に書かれている。何かを隠したまま、書かれている。「傷」が隠されているのだ。
夢の中で封鎖された
門の前、かすかに鳴る。
ここにはその「隠されたもの」が隠されたまま書かれている。何が「かすかに鳴る」のだろうか。主語が省略されている。書いた豊原にしか、何が省略されているかわからない。そして、豊原自身は省略したという意識がないだろう。書かなくてもわかるから書かなかったとしか考えないだろう。だからこそ、その書かれなかったことばが大事だ。前後の文脈からことばを探せば、「心の中の艶」になるだろう。「雲」に成った心の中の艶が、かすかに鳴っている。風に吹かれて鳴っている。そう読むとき、「成る」と「鳴る」が重なり合い、不思議な風景が見えてくる。心の中の艶の小さな悲鳴が聞こえてくる。
その悲鳴を「詩」と呼んではいけないだろうか。
豊原は、そこに豊原の「詩」を隠している。それが「詩」であることが豊原には自明のことだから、豊原は「詩が」と主語を書くことを省略してしまったのだ。
豊原の本当の「詩」は夢の中で封鎖された門の前で、かすかに鳴っている。その「鳴っている」は「鳴いている」であり、同時に「泣いている」なのだと私は感じてしまう。
そうした「傷」を隠したまま、豊原は明るく、軽く、生き続ける。
飄々とした詩を愛し
愚か者になりましょう
ここでは「飄々とした詩を愛」することと、「愚か者」が同じ意味で書かれている。現代ではたしかに飄々とした詩のことばが社会を動かすということはないだろう。飄々とした詩は役立たずである。それを愛することは愚か者のすることだろう。自覚して、豊原はそう「なる」ことを選ぶ。
「傷」は飄々とした詩を愛することのなかに隠したまま、愚か者、役立たずを選びとる。そこには本当は「傷」としての「詩」を守るというひそかな行為もひそんでいるかもしれない。
こうしたことができるのは、たぶん豊原には肉体に対する強い信頼があるのだと思う。「詩」はどこかでかすかに鳴っている。泣いている。そしてそれは、ことばでつなぎとめるものではなく、肉体でつなぎとめるものなのだ。
肉体はひとりひとり違う。それは触れ合うことはできても完全に混じり合うことはできない。しかし、本当か。実は、混じり合う。触れ合うときの「感触」のなかで溶け合い、ひとつになる。「詩」もそれに似ているだろう。
肉体がそこにある。そして、その肉体のなかをことばが通って出てくるとき、「夢の中で封鎖された/門の前」ではなく、肉と骨と血でできた見えない門の前で、こころが泣くのだ。そのかすかな声は肉体が触れ合いながら、かすかに感じ取るものである。
日暮れのオヤジの生暖かい手の平。
オヤジは泣きながら債務者にお詫びする
ことばを便所で考えているのかな。
オヤジの考えたことばはここには書かれていない。省略されている。それは「詩」である。豊原にとって自明であるからこそ、豊原は省略したが、誰にとっても自明のものである。いったん書かれてしまえば「ああ、そうだった」と読者のだれもが納得するしかないことばである。そうしたことばを「ああ、そうだった」と私たちが感じるのは、実は、そのことばが日々私たちが肉体のなかで繰り返していることばだからである。ことばにはしない。しかし肉体で繰り返している。そっとこころのなかにしまいこんでいる。
そうしたものがあることを、豊原のことばは、いつも笑いのなかで広げてみせてくれる。ことばではなく、肉体としてみせてくれる。そこから先、ことばを実際に探すのは、たしかに一人一人の読者の仕事なのだから。