詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新川和江『詩の履歴書』(その3)

2006-07-20 10:28:36 | 詩集
 18日、19日に書いた新川和江『詩の履歴書』(思潮社)の感想の、さらにつづき。

 「頭」で書くこと、「肉体」で書くこと。この違いについて私が考えていることを説明するのに都合がいいので、何度でも新川の作品を引用する。

わたしを通ってゆきなさい
わたしはそれで活力を得て一篇の詩を書きます
あしたになったら
ユリの茎のリフトを昇ってごらんなさい
階上には聖なる礼拝堂がある
それとも庭にくるキジバトに飲んでもらって
思いがけない方角の空に飛んで行く?

 この連に私は新川の肉体を感じるが、ではここに「頭」はないのかというと、そうではなく、「頭」はちゃんとある。ただし、あり方が違う。
 「ユリの茎のリフトを昇ってごらんなさい」には、植物が地下から水を吸い上げて生きているという認識がある。「階上には聖なる礼拝堂がある」はユリの花を「礼拝堂」にたとえているのだが、そのことばの動きのなかには「白(ユリの白)」と「聖なる」ものの「白」が交差している。白を「聖」ととらえる認識がひそんでいる。
 「庭にくるキジバトに飲んでもらって/思いがけない方角の空に飛んで行く?」というのは完全な空想である。空想は「頭」でするものである。
 こう読んでいけば、私が新川の肉体を感じた行も「頭」でつくられたものであることがわかる。しかし、同じ「頭」で動かしたことばであっても、その動かし方が違う。

 この連では、「頭」は遊びのために動いている。「みなもと」だとか「万象」だとか「天」だとかいう、いわば精神を収斂させて、「哲学」を明らかにさせるためには動いていない。ただただ自由になるためにことばは動いている。水の動きを空想するとき、新川の体は人間の体から解放され、自由にうごきまわる。
 私が「頭」で書いていると批判した部分は、「みなもと」「天」など、いわば一点へ向かって収斂する、理想に向かって収斂するのに対し、「ユリ」や「キジバト」は、そういう「収斂する理想」を拒否している。そこに自由がある。解放がある。
 一点を拒否しているというあり方は「それとも」ということばに象徴的にあらわれている。「天」か、それとも「地」か、というふうに普通は「それとも」は対極にあるものを向き合わせ、その一方を選ぶよう決断を迫ることばである。しかし、新川は「それとも」をここではそんなふうにつかっていない。「ユリ」のなかの水、「キジバト」のなかの水はまったく関係がない。対極の関係にはない。
 「それとも」は単なる並列をあらわしている。どっちだっていい。もっといえば、「ユリ」や「キジバト」以外のなんであってもいい。どんな存在のなかに水が流れていってもいいのだ。ここではない、どこかへ行けば、それでいいのだ。子どもが無邪気に目的もなく走り回るようにことばが動いている。ここではないどこかへ、ただそれだけを願って動いている。

 新川の詩を輝かせているのは、そういう自由さである。そして、その自由をささえているのが「それとも」という新川独自のことばのつかいかたである。対立させるのではなく、ある存在を並列して呼び寄せる「それとも」ということば。
 新川の詩作の歴史にそっていえば、批評精神に満ちた「現代詩」か、それとも「愛の詩」か。そのとき、新川は「愛の詩」を選んではいるが、その選びかたは「現代詩」を拒絶してのことではない。「現代詩」を否定してのことではない。「現代詩」は「現代詩」として生きていればいい。新川は、それとは別の「詩」を書く。「それとも」には他者(自己以外のもの)を受け入れる寛容なこころが広がっている。
 寛容さが新川の詩のいのちであるといってもいい。
 ことばをとおして私たちは遊ぶのだ。その遊びを受け入れる豊かさが新川の「それとも」にはある。「ユリになる? それともキジバトになる?」そう誘いかけながら、新川は、私たちの肉体を解放する。遊ばせる。遊びのなかでこそ、誰ともいっしょに暮らすための「知恵」が隠れている。
 新川が「主知的」と批判している「現代詩」の「知」が「知識」の「知」であるなら、新川のやわらかなことばのなかに生きている「知」は「知恵」の「知」である。「知恵」は遊び、他者とのさまざまなふれあいのなかで豊かになっていく。

 このエッセイの冒頭に「ballad」という作品がかかげられている。とても魅力的な詩である。本当はこの作品についてこそ書くべきだったかもしれないと、いま、少し反省しているのだが……。
 その冒頭の4行。

〈あの人を愛している〉
ある日わたしはとうとう言ってしまいました
熟した豆がひとりでに
はじけてこぼれるように です

 ここに書かれている「愛している」は「知識」ではない。人は「愛している」と認識しているから「愛している」と言うのではない。「愛している」と言わないと自分がどうにかなってしまいそうだと知っているから言うのだ。そう言うことで自分自身を守るのだ。人間には、そういう「知恵」がある。
 「熟した豆がひとりでに」の「ひとりでに」は「自然に」と同じである。ある極限がくると自然に動きだすものがある。それが「知恵」である。誰かに教わったものではない。どうしてもそれを教えてくれた誰かを特定しなければならないとしたら、それは、延々とつづくいのちが教えてくれたものである。「知識」は誰かから教わるものである。「知恵」は教わるという意識もなしに、自然に、さまざまのものとの触れ合いのなかで身につけるのものである。体、肉体にしみこませるものである。

 「知識」と「知恵」についての補足。
 この詩には「知」という文字が2度出てくる。「のどがかわいている」と訴えるミューズに対しての答えである。

わたしはりんごの木のありかを知っていました
きれいな水のふき出す泉も知っていました

 ここで書かれている「知」は「知識」のように見えるかもしれない。りんごの木、泉のありかを認識している。「知識」として知っている。だが、それは「頭」だけで知っているのではない。
 新川がここで「知っている」というとき、そこには歩いて行ける距離というものが自然に配慮されている。他人の肉体が配慮されている。他人は常に肉体を持っているということが配慮されている。
 こういう配慮を「知恵」と言う。肉体にしみこんだ「思想」と、私は呼ぶ。肉体を持った「思想」が人を温かい気持ちにさせる。
コメント
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