詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

映画「隠された記憶」

2006-07-11 23:44:59 | 映画
監督 ミヒャエル・ハネケ 出演 ダニエル・オートゥイユ、ジュリエット・ビノシュ

 とても不気味なシーンがある。ダニエル・オートゥイユとジュリエット・ビノシュが食事をするシーンである。壁面を本が覆っている。周り中、本だらけである。本のタイトルまではわからないが実物の本である。ダニエル・オートゥイユの仕事の現場、テレビのインタビューの場面では本は偽物であるのと比較すると不気味さが際立つ。食事、あるいはくつろぎと本とは無関係のもの、相いれないものである。本にびっしりと囲まれて食事をしておいしいだろうか、楽しいだろうか。主人公の仕事柄、本が必要なら必要でいいけれど、実際の生活の場では本棚に扉をつけて本の存在を見えなくする工夫があってもいいだろう。ところが、この映画では、そうしたことがされていない。そして、ここにこの映画のテーマがある。
 人間の生活には隠しておいた方がいいものと、隠しておいてはいけないものがある。この映画は隠しておいた方がいいものをむき出しにしている。そのために不気味さが生まれている。隠しておかなければいけないものを、むき出しにしてしまうとき、事件が起きる。それがこの映画の「思想」である。

 ダニエル・オートゥイユの隠しておきたいこととは何か。子どものとき、一緒に暮らしていたアラブ系の子どもを家から追い出したことである。一緒にいたくないので、両親に嘘をついた。少年に鶏がこわいと訴えておきながら、ダニエル・オートゥイユのために少年が鶏を殺すと、逆に少年がおそろしいことをしたと両親に訴える。そして、少年がどこかへ連れ去られるのを隠れて見ていた。「行きたくない」と訴える少年の隠れて見ていた。
 隠れて見ていること、見えているのに見ていないふりをすること。これもこの映画のテーマである。
 何度も出てくる隠し撮りのビデオ。それはそのまま隠れてみていることをあらわしている。移民国家のフランス。そこで起きている人種差別。そこにはダニエル・オートゥイユの子ども時代の行動も含まれる。だからこそ、ダニエル・オートゥイユはそれを隠したい。隠したいと同時に、何とか、隠したまま別の形でそれを実現させたい。移民が嫌いだという本心を吐き出したい。その行動は、子ども時代ならまだ許せるが、大人になって、しかもテレビキャスターとなった今は、そのままでは実行できない。その矛盾の中で、ダニエル・オートゥイユがしだいに破綻していく。

 この映画での、もう一つのぞっとするような怖いシーン。ありふれているが、思わず飛び上がりそうになったシーンがある。(本棚に囲まれたシーンが静のシーンなら、こっちは動のシーンである。)それは、ダニエル・オートゥイユがインタビュー番組のテープを編集するシーンである。テープを見ながら彼は、「ここから先は視聴者には退屈だ。カットして同性愛について語るシーンにつなげよう」と指示を出す。ダニエル・オートゥイは日常的に情報を操作して他人に提供しているのである。子ども時代に一緒に暮らしていたアラブの少年が主人公を怖がらせたというのも情報操作である。ダニエル・オートゥイにとって情報操作は仕事を通り越して、彼自身の肉体にしみついた思想なのである。
 子ども時代、ダニエル・オートゥイは両親に嘘をついた。嘘の情報を提供した。アラブの少年が彼を怖がらせている、と。そして今は、妻に(あるいは彼をとりまく周囲の人に)、自分は脅迫されていると見せかける。情報操作をする。そうした情報操作が妻に対してどんな影響を与えるかなど考えない。(子ども時代も、両親がどう影響を受けるかなど考えなかっただろう。)移民に対する差別を隠しておきたいという意識があり、その隠蔽を完全なものにするために、自分自身を脅迫の犠牲者にまでしたててしまう。テープを編集するように、現実を編集してしまう。そうした不気味な日常性が、このシーンにくっきりとあらわれていた。

 こうした映像を、「隠し撮り」というテーマとも関係があるのだが、固定したカメラで、きわめて静的に積み重ねる手法は、とても効果的だ。動かない。暴力的な動きなどなにもないと見えても、本当は、それは操作された映像にすぎないのである。動かないとしたら、動けないのではなく、動きを隠すために動かないことを強調しているのである。



 監督のミヒャエル・ハネケは「ピアニスト」でも怖いシーンをとっていた。主人公のイザベル・ユペールが浴室でクリトリスに剃刀をあてる。なぜか。太股からしたたる血を母親に見せるためである。自分にはまだ月経がある。女盛りである。そう嘘をつくためである。母親は彼女のセックスの対象ではない。しかし、母親に嘘をつく。情報操作をする。母親のいいなりになって、結婚もあきらめ努力してきた。しかし、いま女の性に目覚めた。その欲望が正当であると主張するために、嘘をつく。真実を言ってもいいのに、真実だけでは信じてもらえないと思い、嘘をつく。そこに人間の深い悲しみがある。
 人生に失敗した女性の悲しみを深くえぐった監督は、今度は人生に成功した(と見られている)男の、深い欲望、隠しておきたい欲望をえぐり取ったといえる。

(付記。
この映画は「衝撃のラストシーン」が売り文句である。そのことばに従えば、たぶんこの映画の犯人(?)はダニエル・オートゥイの息子になるのだろう。ただ、そういう見方をしてしまうと、この映画は単なる「探偵映画」になってしまう。その少年の無邪気さも含め、人間の欲望の複雑さ、欲望を隠すための行動の奇怪さ、不気味さを見逃してしまうだろう。)
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魚家明子『森には雨、五月』

2006-07-11 22:33:36 | 詩集
 魚家明子『森には雨、五月』(思潮社)。「個室の眠り」の書き出しを何度も何度も読み返した。

感情がこまやかになり
ふと、誤解はふえていく
すべてを言い切ろうとするとき
齟齬、は起きる

 何が省略されているのだろうか。言いにくい何か、書き表すことのできない何かが省略されていて、省略されたまま、ことばが動いている。
 「誤解」と「齟齬」は同じことを別のことばで語ったものだろうか。そうであるなら「感情がこまやかにな」ることと、「すべてを言い切ろうとする」ことは同じことを指す。感情がこまやかになり、起きていることの細部がしっかりと見えてくる。それを一つずつことばにしていくとき、ことばに齟齬が生じる。矛盾が起きる。それが誤解か。
 感情を隠しているとき、感情を切り捨てて、他者と会い、表面的に対応するとき、誤解は生じることはない。対話にも、他者へ向けた個人のことばにも齟齬が生じることはない。--ということは、たしかにあるかもしれない。誤解、対立、齟齬を避けるために、現代人は感情をこまやかにすることも、すべてを言い切る努力をすることも省略しているかもしれない。そうした世界のありようを、魚家はこの詩では裏側(反対側)から描いているのだろう。
 感情をこまやかにすれば誤解が生じる。すべてを言い切ろうとするとき齟齬が生じる。だから感情をこまやかにする前に「わたし」という「個」に引きこもる。そうすると誤解は生まれない。すべてを言いきる前に「わたし」という「個」に引きこもる。そうするとどんな齟齬も生じない。
 そして……。

街では、突如、言葉が区切られて、
深い水脈が街の底を覆う
そして誤解はくるまれて
気持ちを、やすやすと呑み込んでゆく

気持ちは眠る

 「わたし」という「個」にとじこもれば、誤解も水に流される。「気持ち」(感情の言い換えである)もいらだつことなく、水に流されていく。気持ちは安らかに眠る。
 だが、本当か。

気持ちは眠る
が、言葉は眠りの中で起き上がる
わたしたちの個室、その限られたひろがり
区切られながら気持ちを綴ると
おだやかな風がすべてをかき消して
わたしたちはもういない

 安らかに眠ったはずである。しかし、実際にはどうなのか。実際には、言葉はかってに起き上がり、「わたしたち」を誤解、齟齬のない世界に閉じ込めただけにすぎない。そのとき、本当は「わたしたちはもういない」状態である。

そして言葉が残る。

 これはどんな言葉だろうか。「街では、突如、言葉が区切られて」というときの言葉である。「わたし」を「個」に区切ってしまった言葉である。
 そして、それは悲しい風景である。一連目の

感情がこまやかになり
ふと、誤解はふえていく
すべてを言い切ろうとするとき
齟齬、は起きる

 という世界よりもはるかに悲しい世界、絶望的な世界である。誤解に満ち、齟齬だらけの世界の方が、感情がこまやかであり、すべてをことばで言い表そうとする欲望が充満した生き生きとした世界である。
 だが、魚家は、何を言いたくて、この詩を書いたのか私にはよくわからない。「そして言葉だけが残る」という風景を悲しいと言いたいのか、そういう世界のあり方は納得できないと言いたいのか、よくわからない。魚家にもよくわからないのかもしれない。
 一連目。

感情がこまやかになり
ふと、誤解はふえていく

 この「ふと」が問題なのだと思う。魚家は「ふと」そう思ったのだろう。「ふと」思ったことを、つきつめようとはしていないように思える。きのう書いたヒューゴ・ウィリアムズとの詩の比較で言えば、「自分で考えたいんです!」というよりも、それが「感じ」のまま書かれている。
 最初に、私は、この詩には何が省略されているのだろうかと書いた。たぶん「感じがする」ということばが省略されている。「感じがする」ということばを2行目、4行目に補って読むと、魚家の書きたかったことがよくわかる。「感じ」を書きたいのだ。「思考」ではなく、「感じ」を書きたいのである。「そして言葉が残る。」と書くときも、それはことばを積み重ねてたどりついた「思考」ではなく、「感じ」なのである。

 「思想」はさまざまな形をとる。「思考」の形をとるものもあれば、「肉体」の形をとるものもある。そして魚家が書くように「感じ」の形をとるものもある。

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