藤維夫個人誌「SEED」。魅力的な詩が5篇(あとがきを含めると6篇)。その冒頭の「いま詩というレトリックから離れられなくて」の後半、第2連。
藤は詩がレトリックでできていることを自覚している。「空虚な語彙のなかで/朽ちかけた窓の向うを見ているだけだ」。「空虚な」というのはレトリックとして定式化したという意味であろう。そうした「語彙のなかで」「……を見ている」。「なかで」は媒介して、ということになるか。肉眼で見るのではなく、定式化した語彙(ことば)をとおして、つまり、定式化したことばにそってことばを動かし、そのことばの通りに世界を見つめる。それが「詩というレトリックから離れ」ない、という状態だろう。
なぜ、藤はこういう作品を書いたのだろう。
レトリックにしたがって世界を見れば、それが「空虚」であっても、たぶん落ち着いている。それは一種の安心である。しかし、それでいいのか。藤は、そこから抜け出したいと願っている。願っているなら、さっさとレトリックを捨てればいいのだが、それが簡単にはいかない。
この行の「まだ」に詩がある。藤の苦悩がある。「迷っている」から苦悩なのではない。その状態が「まだ」と認識するしかないから苦悩なのである。「いま詩というレトリックから離れられなくて」というときの「いま」は、そして、別のことばでいえば「まだ」なのである。「いま」と「まだ」が重なる。そこに苦しみがある。
そして、この「いま」と「まだ」の重なりにレトリックを超えた「詩」がある。レトリックを捨てた「詩」がある。つまり、ここから「詩」がはじまる。
昼はすっかり遠く退き
飛翔のなか 炎の精神を横切って
茫然とたった一つの回路を待ちわびている
空と鳥のやすらぎ
空虚な語彙のなかで
朽ちかけた窓の向うを見ているだけだ
いま詩というレトリックから離れられなくて
鳥を見て まだ迷っている
生きて死んでその真上の太陽が
いつかさらに昇ってくる日まで
藤は詩がレトリックでできていることを自覚している。「空虚な語彙のなかで/朽ちかけた窓の向うを見ているだけだ」。「空虚な」というのはレトリックとして定式化したという意味であろう。そうした「語彙のなかで」「……を見ている」。「なかで」は媒介して、ということになるか。肉眼で見るのではなく、定式化した語彙(ことば)をとおして、つまり、定式化したことばにそってことばを動かし、そのことばの通りに世界を見つめる。それが「詩というレトリックから離れ」ない、という状態だろう。
なぜ、藤はこういう作品を書いたのだろう。
レトリックにしたがって世界を見れば、それが「空虚」であっても、たぶん落ち着いている。それは一種の安心である。しかし、それでいいのか。藤は、そこから抜け出したいと願っている。願っているなら、さっさとレトリックを捨てればいいのだが、それが簡単にはいかない。
鳥を見て まだ迷っている
この行の「まだ」に詩がある。藤の苦悩がある。「迷っている」から苦悩なのではない。その状態が「まだ」と認識するしかないから苦悩なのである。「いま詩というレトリックから離れられなくて」というときの「いま」は、そして、別のことばでいえば「まだ」なのである。「いま」と「まだ」が重なる。そこに苦しみがある。
そして、この「いま」と「まだ」の重なりにレトリックを超えた「詩」がある。レトリックを捨てた「詩」がある。つまり、ここから「詩」がはじまる。