詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鎗田清太郎「手」

2006-07-16 15:12:02 | 詩集
 「葡萄」53号が「若き日の詩集」という特集を組んでいる。5人の詩人がそれぞれ一篇を選び、「自注」をつけている。それを読むと、びっくりすることがある。たとえば、鎗田清太郎「手」。

投げられた骰子(さいころ)が
3を示したとて
5を示したとて
何の意味があろう
ころがされて
涯しない空白に
顫えているばかり
3であるより
5であるより
なべて黒いリムバーを
嘆かうよりも
なぜ骰子であるのかに
意味があろう
ぼくがぼくであることを忘れ
きみがきみであることを忘れ
ぼくもきもよ骰子であり
投げられて
ころがされて
ここに在ることについて
考えよう
もはや
3が5を嘲笑(わら)い
5が3を嘲笑(わら)う無意味さ
荒れ果てた空白にいて
ふたたび投げられようとする
1・2・3・4・5………
ぼくらを掴(つか)み
なおも投げようとする
その一つの手は
何か

 この詩について、鎗田は次のように書く。

この詩は言うならば、ハイデガー鉄苦学の重要な概念「投企entwerfen 」をテーマにして書かれたもので、これは「悪しき意味での日本的感性、俗流情緒」を捨てて「人間存在の本質の詩的把握を目指す」ことをテーマにしている。

 詩はとてもよくわかった(つもりだった)。しかし、「自注」がよくわからない。何を書いているのか明確に理解できない。
 「投企」は「投企」と「被投企」のふたつの視点から見ていかなければならないと思う。ここに書かれている人間のあり方は「被投企」としての存在である。人間は何の自覚もないままに世界に投げ出されている。その不安。情緒的存在としての人間。
 「投企」というのは、そこから出発して自己を構築していくこと、と私は理解している。「投企」がテーマと言うのであれば、どんな自己を想定しているのか、それが書かれていなければならないと思うが、それが見当たらない。
 「被投企」としての存在、不安な情緒が書かれている、鎗田が否定しようとしたものが、どう否定するかが明示されないまま、そこに書かれているという感じしかしない。

 私は、この作品の成立過程を知らない。成立過程を無視して書けば、私が感じたのは、戦中の不安な人間のありようである。自己投企できず、ただ巨大な権力によって世界に投げ出されている。自分の意思ではなく、権力によってたとえば兵隊の位(骰子のナンバー)を割り振られている。そこでは「私」は存在しない。「私」を無視して、巨大な手が人間を骰子のように振っている……。そうした状況を描くことで、状況そのものを批判していると思って読んだのである。
 そういう批判を鎗田は「投企」と呼び、それが彼の出発点であると言うのかもしれないが、何かが微妙に違う感じが残る。
 「日本的感性、俗流情緒」は「骰子」を登場させるだけでは、それを捨てたことにはならないだろうと思う。「ぼくらを掴み/なおも投げようとする/その一つの手は/何か」というのは私(この詩が戦争中に書かれたものであるとばかり、私はかってに想像していたので)には「天皇制」としか思えないのだが、そうした「制度」を「手」という比喩で語ってしまうところに、私は逆に日本的感性、情緒のようなものを感じるからである。
 もしほんとうに天皇制を批判するのなら、一人一人の個人を単なる骰子として戦場に送り出した巨大な手として批判するのなら、もっと明確に批判しなければ批判になり得ないと思う。「一つの手」は、それこそ世界全体を覆っていた戦争という状況と言い換えられてしまうからである。そういう把握の仕方、責任のあいまいさを受け入れる姿勢こそ、私には「日本的感性」に思えてしまうからである。



 「火牛」57冊に鎗田の「『旧詩帖』補釈」が載っている。その冒頭の作品。

敗兵として帰京し
母とよく近郊の農家に
買い出しに行った
あるとき
芋袋を背負ったまま
レール沿いに歩き
古い鉄橋に出た
…長さ一五〇メートル
 眼下二〇メートル下の
河原ののどかな二筋の流れ
もどっても
もどらなくても
そのうち電車は来るだろうし…
〈そのとき何が出来るだろう!?〉
私と母はレールの上を
ただ芋虫のように
腹這って進んだ

 ここに書かれた「芋虫」ということば。そこに私は鎗田の「自己投企」を見る。困難な状況を生きる人間である鎗田。食べ物もなく、不安定な世界に投げ出されて、不安な鎗田。被投企としての鎗田がまず描かれ、そこから脱出するために行動する。買い出しに行く。鉄橋を渡る。そのとき、鎗田は「芋虫」として生きる。「芋虫」へ向けて「自己投企」する。
 これは強烈な体制批判である。人間を人間として存在させない権力に対して、私は今「芋虫」として生きる、そうすることが自分の命をながらえさせる唯一の方法だからである、私をそういう人間にさせてしまう権力は無力であり、批判されてしかるべきものだという強いメッセージがある。
 この作品には、鎗田が書いている「悪しき意味での日本的感性、世俗情緒」を捨てる姿勢が強く読み取れる。この作品に、「手」の「自釈」がついていたなら、私はとても感動したと思う。
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「プルートで朝食を」は「空気」を描いた映画である。

2006-07-16 00:29:04 | 映画
監督 ニール・ジョーダン 出演 キリアン・マーフィー、リーアム・ニーソン

 映像が非常に落ち着いている。ゲイの青年が母親を探してロンドンをさまようという「きわもの」っぽい題材なのだが、映像そのものがすっくと立ち上がっているところがいい。映像の姿勢(?)が美しい。誰に対しても媚を売っていない。
 この映画では、まず何よりも「空気」が描かれている。主人公やその周囲の人というより、主人公の抱え込む「空気」、主人公が誰かと向き合うとき、そのときどきの「空気」が描かれている。「空気」というのは、あるいは「距離」と言ってもいいかもしれない。主人公と周囲の人との「距離」。遠くから見つめる「距離」、声が聞こえる「距離」、実際に肌と肌が触れ合う「距離」。
 主人公(キリアン・マーフィー)と父親である神父(リーアム・ニーソン)の「距離」を見ていくと、とてもおもしろい。「懺悔室」で窓を挟んで声を聞くときの「距離」。覗き窓から神父が主人公を見ながら、一種の告白をする「距離」。後者では神父から主人公はすべて見える。主人公はのぞき窓から逆に神父の姿をのぞこうとするが見えない。そのときの、壁(マジック・ミラー)を隔てた物理的な「距離」は変わらないのに、主人公の意識のなかで「距離」が大きく変化する。単なる客の一人と思っていたのが、事実を告白する父親だとわかった瞬間、こころはぐいぐい神父に近づいていく。そのときに壁(マジック・ミラー)は突然巨大な壁、分厚い壁となって立ちはだかる。そこにある「空気」そのものは物質的には同じ空気なのに、こころの変化によって、まるで違ったものになる。以前と同じものとして胸に吸い込み、吐き出すということができなくなる。
 「空気」は「距離」であり、それは瞬間瞬間によって、様相をかえるのである。
 私たちは無意識のうちに「空気」を読む。「空気」を判断する。ほんの少しの視線の動き、体の向き、動かし方、その変化のなかに、「真実」がある。人の考えていることがある。「空気」は思想をあらわしている。
 この映画は、たとえば主人公のアップ、女装するときの顔のアップの瞬間さえも「空気」として世界をとらえる。鏡と鏡をのぞきこむ瞬間の「距離」には自分を完成させていく意志に満ちた「空気」がそこにある。それに対して、先にあげたマジック・ミラーののぞき窓から逆に神父をのぞくときの主人公の視線の動きと鏡がつくりだす距離には自己を自分で完成させていくという意志はない。そうではなく、他者に頼らなければ自己が完成しないという不安、あるいは逆に自己が完成してしまう一種の恐れのようなものが、「空気」を支配する。
 こうした微妙な「空気」の変化そのものを映像として定着させる力はどこから来るのだろうか。たぶんイギリス特有の個人主義からくるのだと思う。イギリスの個人主義は、とてつもなく徹底しているように私には感じられる。人が何かをするのは、その人が自分の判断でするかぎりにおいては誰も批判しない。その人の自由である。だから、かかわりになりたくなければ「距離」をとる。かかわりあいになるにしても、けっして「距離」を見失わず、「距離」を保つ。ここから一種の冷たさが生まれる。しかし、「距離」があるから、同時にユーモアも生まれる。自分を自分から突き放して、「距離」をつくり、その「距離」を攪拌してしまうのだ。今そこに存在する「距離」が誰の視点から見つめたものかわからないものにしてしまうのだ。
 この冷徹さがあるから、「空気」に品が生まれる。その品が、空気を屹立したものにみせる。

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