詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐伯多美子「睡眠の軌跡」

2006-07-14 23:06:29 | 詩集
 佐伯多美子「睡眠の軌跡」(「カラ」1)。

  かつて、アパートで睡眠を得るために、狭い部屋には不自然にもみえる大きなベッドを据えた。

 書き出しの1行である。とても気になる。最後まで作品を読み終えたあと、引き返してきて、私はこの書き出しだけ、5回以上繰り返し読んでしまった。びっくりしてしまったのだ。引用してみて、いっそう驚く。意味はわかるのだが、どうにも不自然である。ひっかかるものがある。
 そのひとつは「かつて」ということば。これはあとで触れることにする。
 もう一つは「アパートで睡眠を得るために」という表現。「睡眠を得るために」は直接的には「大きなベッドを据えた」に結びつくのだが、この表現のねじれかたは、とても奇妙である。「アパートで睡眠を得るために」と読むと、睡眠するために、わざわざアパートを借りたのだろうか、と思ってしまう。生活の場は別のところにあるのだろうか。「睡眠を得る」というのも気にかかる。生活の場では眠れないので、アパートを借りて、大きなベッドを買ったのか。そうではないと思う。たぶん、この1行は、「私はかつてアパートに住んでいた。熟睡できないので、なんとか熟睡したいと思い、大きなベッドを買った。それは狭い部屋には不自然に見えるほどの大きさだった。」という意味だと思う。そういう意味だと判断した上で、思うのだが、佐伯の文章には「住んでいた」(暮らしていた)という動詞が省略されている。「アパートで」を受けることばが省略されていて、それが「住んでいた」(暮らしていた)だと気がつく。
 佐伯には、この「暮らす」という動詞が抱え込む世界が希薄なのかもしれない。じっさい、先に引用した1行につづく文章は、「民」(主人公、「多美子」の「たみ」をとったものだろうか)には生活感覚が欠落していることを説明している。あるいは、普通の生活感覚を隠してしまうほど、ほかの何かに対する感覚が圧倒しているということかもしれない。
 その何か、生活感覚をまるでないもののようにさせてしまう何か、それは「男」である。しかし、それはとりあえずの対象にすぎない。本当に男に対して何かを感じ、その感覚のために、「暮らす」という感覚がおろそかになってしまっている、というのとは違う。どちらかといえば男には関心がない。こころの通いあいにも、肉体の交わりにも関心がないようである。
 では、何に関心があるのかといえば、自分自身の肉体である。それも男を傷つける肉体である。男と同時に、女自身をも傷つける肉体である。

 だいたい民には、男と交わっても快感という感覚に欠けていた。男に悪いとわざと媚態をみせてみる。媚態をみせながら、自分の体を思い描く。服の舌は骸骨であった。背骨の芯の脊髄には鉛色の針金が一本ギグシャク微妙にまがりくねりながら通っていて、腰椎にとどく。腰椎の先の骨盤にの奥には女の膣室がかくされている。膣室には、細かく砕いたガラスの粉がこかくされていたりして、ときに、小さな破片もまざっていたりして、訪れる男に激痛をあたえることがあったりする。男だけでなく、自身いたみを常にいだいたりする。姿態によっては針金が膣室を突き抜けることもある。

 「かつて」と書き始めた文章は、「かつて」よりも過去の男との交わりを描きながら、過去ではなく、突然、ここで現在の肉体の問題(現在形で描かれる問題)に変化している。この「時制」の変化に、私はとても惹かれた。「時制」の変化に佐伯の「詩」を感じた。

 最初に、私は冒頭の「かつて」が不自然である、と書いた。そのことに戻る。
 「かつて」というのは何年前のことか、読者にはわからない。作品全編をとおして読んでも手がかりは何一つとしてない。また、「かつて」こうであったのに対して、今はこうである、ということも書かれていない。ただ「かつて」がいつのことか明示されないまま、「かつて」と「かつて」より以前の過去が語られるだけである。「かつて」がいつの「時」を指すかわかるのは書いた本人だけである。
 そして、「かつて」より過去のことを描きながら、そこに突然、現在形としての肉体が登場する。「かつて」より以前の過去に、こう感じた、ではなく、今まさにこう感じるという現在形で肉体が登場する。
 「かつて」は、そして「かつて」よりもさらに過去の時間は、今、現在と隔たった場にあるのではなく、肉体として常に「今」「現在」としてここに存在している。言い換えれば、ある「時」「かつて」を思い描くたびに、今、現在の肉体の感覚となって存在する。
 「かつて」は頭のなか(文法をささえる精神)では今ではない「時」を指しているが、肉体的にはいつも「今」そのものである。「かつて」はことばにしかすぎない。
 「かつて」は佐伯の肉体を覚醒させることばなのである。
 この「時間感覚」「時間哲学」を私は、とてもおもしろいと思う。たしかに、「過去」などどこにもない。ただ「かつて」と書いてみるだけのことである。存在するのは、「かつて」ではなく、今、現在として「感じる」肉体だけである。
 そう思いながら、少し別のことも考えた。「かつて」と冒頭に書いてしまうのはたぶん佐伯が、私が指摘した「時間哲学」を真に納得していないためではないだろうか。「かつて」ということばを書かずに書き始めれば、佐伯のことばはもっと佐伯に密着したものになるのではないだろうか。なまなましい肉体をもったことばにかわるのではないだろうか。「かつて」が、どこかで肉体を遠ざけてはいないだろうか。「かつて」ということばが肉体を覚醒させたのではなるけれど、いったん覚醒したなら、「かつて」をかき消して、覚醒した肉体のことばそのまま突っ走るべきではないだろうか、とも思うのだ。


コメント
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