詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

尾花仙朔『春霊』

2006-07-17 21:42:00 | 詩集
 尾花仙朔『春霊』(思潮社)。非常におもしろい詩集である。一気に読み終えた。

ママン いとしいかあさん
赤紙一枚 国家の召集令状で
戦場にいったあなたの父 ぼくの祖父が
白木の箱のただ石塊(いしくれ)に変わって帰ってきた
そのとき あなたの母ぼくの祖母は語ったのだね

 「化外の書」の2連目の5行である。「ママン」と「いとしいかあさん」は同じ人間である。「赤紙」と「召集令状は」また同じものである。尾花はあることばを別のことばで言い換える「性癖」がある、とだけ思って読んでしまうと、とても重要なことを見落とすことになる。「あなたの父」と「ぼくの祖父」、「あなたの母ぼくの祖母」も単に繰り返しにしか見えなくなってしまう。しかし、そうではないのだ。これは単なる繰り返し、ひとつのことを別のことばで言い換えただけではないのだ。
 この言い換えにこそ、尾花の「思想」がある。
 「あなたの父」と「ぼくの祖父」、「あなたの母」と「ぼくの祖母」。この繰り返しが浮かび上がらせるのは「歴史」である。祖父(祖母)-母と父-子ども。そこに、それぞれの歴史があることを明確にするために尾花は、「あなたの父」「ぼくの祖父」、「あなたの母」「ぼくの祖母」とことばを繰り返す。読者の視線を歴史へと導く。
 そして、その歴史とは教科書に書いてあるような歴史だけではなく、個人的な歴史の強いものである。

白木の箱を石塊でたたきつけながら
ママン 祖母はあなたに生涯くりかえした
《これが せめて遺髪であったらよかったのに》
祖母は泣きじゃくり 泣きじゃくりながらあなたに頼んだ
《年老いて もしもわたしが惚(ほう)けた人になったら
 父さんの 白木の箱を包んでいるこの白い布で
 わたしの首を絞めておくれ 後生だから……》

ママン 祖母は恍惚の人になった だがあなたは
祖母の頼みを聞き入れなかった
あなたを誰かも見分けがつかなくなった祖母を
あなたは看取(みと)り
祖母は何年も幻の世をさすらい
ある日 滑るように月の裏側に隠れていった 平穏に
ああ ママン それなのにそれからあなたはぼくに
祖母があなたに頼んだ言葉をくりかえした
《わたしが もしも病んで身動きできなくなったら……》と
           (谷内注 《 》は原文では( が二重になったもの。)

 繰り返される祖母と母の、同質のことば。そのことばには通い合うものと違う部分がある。それをそのまま、どこが同じ、どこが違うというようなことは指摘せず、むしろ、ことばの意味の広がったまま引き継いでいくときの悲しみ。その悲しみの歴史が、ここにある。

 そして、尾花の本当の思想、他人に譲れないことばもここには書かれている。「それなのに」がそれである。「それなのに」ということばのなかに、ことばにしようとして、ことばにならない人間の悲しみが存在する。
 母は祖母の「恍惚の人になったら首を絞めて殺してくれ」という願いを拒否した。それなのに母は息子に対して「身動きできなくなったら首を絞めて殺してくれ」と頼む。それも同じ白木の箱を包んでいた布で殺してくれと頼む。自分が出来なかったことを人に頼む。これは一種の矛盾である。しかし、矛盾しているからこそ、そこに「思想」がある。悲しみがある。白木の箱を包んでいた白い布で息子を、夫を感じたい。その同じ願い。同じことを願わずにはいられない悲しみ。そして、その願いを拒否することしか出来ない悲しみ。悲しみというおなじことばで語るしかないふたつの感情。そこに「思想」がある。そして、その「思想」、その悲しみが積み重なって出来たのが「歴史」なのである。
 一人の背後にいる父と母、その背後にいる祖父、祖父母、そしたその背後に……という時間の流れがあり、そのなかでは似た感情が繰り返されてきたのである。そうしたことばにならない感情こそが歴史であるということを語るために、尾花は「あなたの父」「ぼくの祖父」、「あなたの母」「ぼくの祖母」と繰り返すのである。
 ひとりひとりの人間は死ぬ。必ず死ぬ。「それなのに」人間という存在自体は生き続ける。そしてそのとき、あらゆる感情は引き継がれる。感情は「事件」ではないから歴史には記載されない。しかし肉体に刻みつけられていく。その刻まれた刻印の深さ--それを明らかにするために詩は書かれる。あるいは、こういうこともできる。人間は悲しみを胸に刻む。「それなのに」悲しみを繰り返してしまう。ここにも矛盾がある。乗り越えなければならない矛盾がある。だからこそ、それを明らかにするために、尾花は詩を書く。



 重なり合うこころ、そうやって深みを増し続ける歴史。感情の、こころの、精神の歴史。そうしたことについて、尾花は次のような行も書いている。

だが ぼくには分からない
ぼくは果たしてぼくなのか父なのか青鮫なのか
それすらもぼくには分からないのだ
ただ この世に見えないものがぼくには見える
時の簾(すだれ) 空(くう)の垣間を透かして この世の
不可解な現象の実相がありありと見えてくるのだ
                (「格子と霊廟」)

 尾花は「ぼくは果たしてぼくなのか父なのか青鮫なのか/それすらもぼくには分からないのだ」と書くが、実は、それこそ書く理由だ。分からないから書くという意味ではない。分からなくなるために書くのだ。「ぼく」のこころがぼくだけのものなら書く必要はない。ある思い、感情、こころが、たとえば白木の箱を包んでいた布で首を絞めて殺してくれという願いが、母のものか、祖母のものか、分からなくなるために尾花は詩を書く。それが母と祖母に共有されたもの、時間を超えて共有されたものであり、けっして、母のもの、祖母のものと分離してとらえられるものではないということを明らかにするために書くのだ。
 こころ、精神は時間を超え、共有される。それこそが歴史である。尾花の書こうとしている歴史である。時間を超え、共有されるこころ、感情、精神としての歴史--それを、いったい誰のものであるか特定できないという意味で、尾花は「騙し絵」とも呼んでいる。あらゆることがら、あらゆる感情が繰り返されるのである。繰り返しのなかで、奥をひろげるのである。尾花は、その奥へ奥へと入っていく。これは、つまり、歴史の奥から現代へ立ち戻り、今を厳しく批判するということとも同じことなのだが……。
 「夢魔絵帷子」の「二十一世紀の十字軍旗」ということばにつけられた尾花自身の注釈がその厳しい視線を明らかにしている。

9・11直後、ブッシュ大統領は軍事行動を十字軍の遠征にたとえて演説した。アメリカの「キリスト教原理主義」を体現したこの宣言を歴史から抹消してはならない。解釈で歪曲してはならないと思う。

 この注釈を読みながら、私は、さらに尾花が「あなたの父」「ぼくの祖父」、「あなたの母」「ぼくの祖母」と繰り返し書かなければならなかった理由に出会ったと思った。歴史は常に権力者によって歪曲される。ねじまげられる。それを正すのは、祖父・祖母-父・母-子というふうに積み重ねられてきたこころ、せつない感情の力なのだ。世界戦略ではないこころ、肉親を愛するこころ、そこから広がっていく人間そのものを愛さずにはいられない人間の悲しみである。



 大急ぎで書いては失礼になる詩集であると感じながらも、大急ぎで感想を書いてしまった。大急ぎででも書かずにはいられない魅力的な一冊である。また時間を見つけて感想を書きたい。同じことしかかけないかもしれないが、同じであっても、何度も何度も感想を書きたいと思う。とてもすばらしい詩集だ。
コメント
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