詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新川和江『詩の履歴書』(その2)

2006-07-19 23:15:41 | 詩集
 きのう書いた新川和江『詩の履歴書』(思潮社)の感想のつづきを書く。

 このエッセイの中で新川は何度も「現代詩」に言及している。「現代詩」への違和感を語っている。感性や愛よりも社会批評を重視した作品へのアンチテーゼとして詩を書き続けたと語っている。
 たしかに新川が語っていることはそのとおりだと思うが、その一方、私は新川の作品もまぎれもなく「現代詩」の姿を兼ね備えていると思う。きのう引用した作品についていえば、
 
おまえはいつだって 今がはじまり
いま在るところが みなもと

は「主知的」な発想であり、ことばの動きである。最終連の

萬象のいのちをめぐり
悲しみの淵をほぐし
つねに つねに
天に向って朗らかに立ち昇ってゆく……

も同じように「主知的」であると思う。「今がはじまり」「いま在るところ」「萬象」「天」などは肉体では把握できない。「頭」で把握したものである。特に「萬象」が抽象的で、「頭」でしかとらえられないもののように私には思える。
 「頭」でしかとらえられないものを、無意識につかってしまうのだと思うが、その無意識のありようが、すでに「主知的」なのだと思う。
 唐突な比較、印象的な比較で申し訳ないのだが、谷川俊太郎なら、ここでこういうことばはつかわないだろう。大岡信ならつかうかもしれない。いや、やっぱりつかわないだろう。谷川や大岡は、たぶん、書いていることばに対して、新川よりももっと自覚的である。批判的である。--そういう態度をこそ、新川は「主知的」と言っているのかもしれないが……。

 少し脱線したようなので、もとに戻る。
 肉眼は、2連目の「ユリ」や「キジバト」はくっきりと見ることができる。しかし「萬象」は見ることができない。それがほんとうに「万」あるかどうか肉眼は数えることができない。「萬象のいのち」となれば、いっそう肉体で把握することはできない。「ユリ」や「キジバト」の一本一本、一羽一羽にならさわることができる。その内部で動いているものも感じることはできる。しかし1万本のユリ、1万羽のキジバトはむりだし、1万もの違った花や鳥に触って確かめることもできない。そういうことは、「頭」でしか把握できない。そうした「頭」でしか把握できないものを簡単にできるかのように書いてしまうことを、私は「主知的」と呼ぶ。「万象」というとき、新川は肉体ではなく、頭で万象を整理して、把握している。そこには知の操作がある。
 ただし「主知的」とは言っても、そんなにややこしくはない。哲学書を、あるいはその解説書をそばにおいて読まなければわからないというような「観念的」なものではない。たぶん、私が「主知的」と指摘した部分について、新川は「どうして、それが主知的?」と疑問を持つと思う。私が指摘した部分は、たぶん、新川にとっては「肉体」そのものになっているのだと思う。
 「はじまり」「みなもと」「在る」「万象」「天」ということばは日常において繰り返しつかわれるものかどうか一概には言えないけれど、新川はそういうことばを日常的につかい、それに親しんでいる。先に私が「無意識」と書いたのは、そういうことを指す。
 「ユリ」や「キジバト」ということばをつかうときよりは、ちょっとだけ気取り、緊張のようなものがあるかもしれないが、そうした緊張や気取りそのものが日常的であるのだと思う。
 これはいいとか悪いとかの問題ではない。
 新川はもともと非常に「頭脳的」な人間なのだと思う。そうしたことを小さいときから(子どものときから)、繰り返しおこなってきた人間なのだと思う。たいへん頭のいい子ども、がっこうの成績でいえば優等生だったのだと思う。

 こうした人間にもし問題があるとしたら(主知的であることが問題であるとしたら)、「知」とはたぶんに体制的であるということだ。「主知的」というときの「知」はたいていは権力にとって便利なものであるということだ。体制をスムーズに動かしていく、社会をスムーズに動かしていくことに「知」はしばしばつかわれる。そのとき、そうした「知」は体制に都合がいいものである。体制に抵抗するものは「主知的」というふうには好意的に受け入れられない。
 こんなことを書くのは、実は、きのう引用した文章には省略があり、その部分に気がかりなことばがあるからだ。

 おおかたの真理は、すぐれた先人たちによって、言いつくされているにちがいない。けれども私は、それを実生活の中で、自分の五感を通して体得してゆきたい。それには原初の人たちがそうであったように、水や火のそば--つまり台所が、私にはもっともふさわしく思われるのである。

 「水や火のそば」を新川はすぐに「台所」と言い換えている。ここに私はかなり抵抗を感じる。新川の書いている水、火は生活に密着した水、火である。人間の肉体で制御する水と火である。その管理を、体制は長い間、女性にまかせてきた、といえば聞こえがいいが、そういうものを守る人間が必要だということを繰り返し繰り返し、女性に教えてきた。その結果として「水や火のそば--つまり台所が、私にはもっともふさわしく思われるのである。」と新川に言わせているのである。ここで語られる「私にふさわしい場所は台所である」という認識(知)は、実は体制が長い時間をかけて作り上げてきたものにほかならない。そういうことに対して新川は無意識であるか、無防備でありすぎる。そのことが私には不満である。
 視点を変えていえば、「水と火」なら、現代では何よりも発電所である。巨大な量の水と巨大な量の火をつかって電気を作っている。あらゆる動力のもとをつくっている。こういう仕事は食べ物を料理し、家族に提供するのと同じように、昔からおこなわれてきた。そしてそういう仕事は「男」の仕事と定義され、女性は「台所」に押しやられていた。そうしたことに対する批判が新川には不足しているように感じられる。

 新川が「ユリ」や「キジバト」を魅力的に書き、そうした植物や鳥と、肉体として一体になる感覚はとてもすばらしい。そこから動きだすことばはとても美しい。そうしたものに共感するからこそ、私は、どうしても苦言をいいたくなる。
 その魅力的な肉体のことばから、簡単に「台所」へ引き返さないでほしい、と。新川が「台所」へ引き返すとき、彼女につづく多くの女性詩人が「台所」へ引き返してしまう。そうではなくて、「台所」で鍛え上げた肉体で、「台所」の外へ飛び出していくこと、「台所」の外でもういちど裸の肉体になることが必要なのだと思う。
 新川が「現代詩」のアンチテーゼとして詩を書いているように、いま、多くの女性詩人が「台所詩」をアンチテーゼとして詩を書いている。そうしたことを少しでいいからこころにとめておいて欲しいと私は願う。そして、「台所」とは違う場で、新川の肉体を動かし、ことばを動かしてほしいと祈らずにはいられない。

コメント
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