詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(32)

2006-07-24 22:40:20 | 詩集
 引用は、渋沢のこれまでの作品にもあった。だから引用そのものが特に新しい手法というわけではないが、『星曼陀羅』には特に引用が多い。「酒徳頌」に朔太郎が引用されていたことは23日の日記に書いた。引用は、そこでは朔太郎に自己を重ねるという形をとっている。他者に自己を重ねるとはとういうことか。他者になるということか。そういう面もあるが、渋沢の場合、他者の力を借りて自己を動かすという感じがする。

 「金比羅」は

 世界が真っ白になり、あるいは同じことだが、真っ暗になる。

 という文ではじまる。「真っ白」と「真っ暗」は常識的には同じことではないが、渋沢は「同じことだ」と書く。そして、この文章において重要なのは、正反対のものを「同じ」と呼ぶ論理ではなく、その論理を導き出す「あるいは」ということばである。
 この「あるいは」はとても複雑なことばである。
 辞書(広辞苑)には「あるときは」とか「どうかすると」という「意味」と説明している。これはとてもあいまいな定義である。しかし、渋沢のつかう「あるいは」はそういう意味ではないように思う。渋沢は「あるいは」に時間的な意味を込めていない。一瞬、今、という意味しかない。「あるいは同じことだが」は「同時に」と同じ意味を持つ。「真っ白」か「真っ暗」を判断するのは、「時間」の差異ではなく、渋沢の、今そのときの思考の基盤である。そして、その思考の基盤というのが「引用」と関係がある。仮定の論だが、朔太郎を思い出し、朔太郎のことば出発点に渋沢のことばを動かせば「真っ白」、淳三郎のことばを出発点にことばを動かせば「真っ黒」というようなことが起きる。「同じこと」とは、それがほかでもない渋沢自身の内部のことがら、精神にかかることがらだからである。渋沢の外部で起きることについては「真っ白」と「真っ黒」は同じであるとはいえない。そこには他者の判断基準がかかわってくる。しかし自分自身の精神の問題なら「同じこと」といえる。
 「あるいは」には実は意味はない。ただ渋沢の精神を動かすためにのみ存在することばである。ここに渋沢の特徴が非常によく現れていると思う。渋沢は書きたいテーマというものがあって書いているのではない。ことばを動かすために、ただそれだけのために書いている。渋沢が書いた詩に意味があるとすれば、それはことばはこんなふうに動きうるという可能性を示したということに尽きる。
 「金比羅」の2連目の最後の1行。

ますますわたしの中で動くものがある。

 その動くものは前後の文脈から特定すれば「蛇」ということになるかもしれないが、蛇は単なる象徴である。動くのはことばである。ことばを動かすために、引用し、ことばを動かすために故事に触れる。
 このときほんとうに存在するものはなんだろうか。ことばを動かすためのエネルギーと構造である。ことばを動かすエネルギーについては、たとえば「直列の詩学」がある。エネルギーについては、渋沢はさまざまに考察してきている。試みてきている。
 「構造」はどうだろうか。
 渋沢は『星曼陀羅』いぜんには散文体の詩をほとんど書いていない。『星曼陀羅』は散文体で書かれている。そのことを考えてみなければいけないのかもしれない。
 散文は渋沢にとっては虚無の構造なのである。(--この断言は、かなり急ぎすぎたものである。いずれもっと丁寧に書きたいと思うが、きょうはとりえあず、メモとして書いておく。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする