「愛執ぶり」(『星曼陀羅』)。これは、とてもおもしろい。
この書き出しを読むと、テーマは「空無への愛執」であると誰でも思う。ところが、この詩はまったく違う展開をする。最初の1行は、次のようにつづく。
「愛執」ということばは、「空無」という仏教に通じることばに誘い出されたものだろうが、このことばに出会った瞬間から、詩が微妙にずれる。「空無への愛執」がテーマから思っていたら、突然、「愛執」そのものがテーマになり、「空無」はわきへ押し退けられる。と、思った瞬間、詩は、ふたたび転換する。
ことばの運動が揺らぐのである。ふたたび「空無への愛執」へ戻る。このときの、論理(?)の転換のためのことばが「だが」なのだが、この「だが」のあとのことばの動きも、奇妙である。「空無への愛執」があるとすれば、それは「罪障」であるかどうか、と問いかけたあと、しかし「空無への愛執」がどのようなものであるか定義されていないことに気づき、それは「どのような現れ方をするものなのであろう」と問いをたたみかける。「空無への愛執」というものが具体的に定義されないまま、それがあるのではないか、と詩ははじめられたことになる。こうしたことばの運動は、たぶん、渋沢の初期からの性質であると思う。何かが明確になっていて、それを書くのではなく、何かよくわからないものがことばとして登場し、それに向けてことばを動かしていく。何も仮定しない。そのとき目の前にあるものを媒介にしてことばを動かしていく。どこまで動いて行けるか確かめる。どこまで動いて行けるか、ということばの実験をする。その実験が「詩」であるということだろう。
「空無への愛執」というものがどういうものであるかはわからない。わからないまま、渋沢は、ふたたび「愛執」の方へ重心を映す。古典を題材に植物(梅)や小動物への「愛執」の例を紹介する。
そして突然、
何も書いてないのである。「空無への愛執」と書きながら、その実態というか、それがどんな現れ方をするか、それがどんなふうに人間の罪障になるかなど、いっさい書かない。
これはどういうことだろうか。渋沢が「空無への愛執」につてい何もわかっていないということである。しかし、だからこそ、私はこの詩がおもしろい。わからないこと、ことばにならないこと、ことばにできないことが、今、ここに存在する。それをなんとかことばにするために、わかっていることを書く。書きながら、ことばの運動を励ます。動け、動け、もっと先へと動け、と念じながら、ことばを動かしているようでもある。
考えてみれば、「直列の詩学」のときから、渋沢はただことばを、今、ここから、ここではないどこかへ動かそうとしていたのだと思う。ただ、ことばを動かす。ことばの、ことば自身で動いていく力を引き出す。そういうものを「詩」のなかで再現したかったのだと思う。
何もわかっていないもの--それは「空無」に似ているかもしれない。そこには何もないのではなく、何でもが可能性として存在する。そうしたものへの限りない「愛執」が支部沢にはある、ということだ。
*
「無」については「酒徳頌」に、朔太郎のことばを引用しながら、次のように書いている。
「無」への共感がある。「愛執」までが、共感できる文章を探し出してきたということかもしれない。
「無」は何もないのではない。何もかもがある。何もかもをひとことでいえば「自由」「解放」である。「自己解放」する「場」が「無」という時空間なのである。
ほとんどナンセンスあるいは語義矛盾に近い言い種かもしれぬものの、空無に執着する心、空無への愛執といってものにひそかに取り憑かれている精神というものも、時にみられるのではあるまいか。
この書き出しを読むと、テーマは「空無への愛執」であると誰でも思う。ところが、この詩はまったく違う展開をする。最初の1行は、次のようにつづく。
愛執。人の男女のあいだのそれならいつの世にも珍しいことではないし、近頃では犬猫はもちろん、グロテスクな爬虫類にいたるまでのペットに対する愛執のほうが人間さま相手を凌いでいる有様で、何につけ上べだけでも愛し執しているふりをせぬことには人扱いされぬ勢いだが、われらが薫習されたところでは、愛執、愛着、哀惜は、その内容如何にかかわらず罪障のはずである。
「愛執」ということばは、「空無」という仏教に通じることばに誘い出されたものだろうが、このことばに出会った瞬間から、詩が微妙にずれる。「空無への愛執」がテーマから思っていたら、突然、「愛執」そのものがテーマになり、「空無」はわきへ押し退けられる。と、思った瞬間、詩は、ふたたび転換する。
だが、空無への愛執というものがあるとすればどうか。そしてそれはどのような現れ方をするものなのであろう。
ことばの運動が揺らぐのである。ふたたび「空無への愛執」へ戻る。このときの、論理(?)の転換のためのことばが「だが」なのだが、この「だが」のあとのことばの動きも、奇妙である。「空無への愛執」があるとすれば、それは「罪障」であるかどうか、と問いかけたあと、しかし「空無への愛執」がどのようなものであるか定義されていないことに気づき、それは「どのような現れ方をするものなのであろう」と問いをたたみかける。「空無への愛執」というものが具体的に定義されないまま、それがあるのではないか、と詩ははじめられたことになる。こうしたことばの運動は、たぶん、渋沢の初期からの性質であると思う。何かが明確になっていて、それを書くのではなく、何かよくわからないものがことばとして登場し、それに向けてことばを動かしていく。何も仮定しない。そのとき目の前にあるものを媒介にしてことばを動かしていく。どこまで動いて行けるか確かめる。どこまで動いて行けるか、ということばの実験をする。その実験が「詩」であるということだろう。
「空無への愛執」というものがどういうものであるかはわからない。わからないまま、渋沢は、ふたたび「愛執」の方へ重心を映す。古典を題材に植物(梅)や小動物への「愛執」の例を紹介する。
そして突然、
さて、もし空無への愛執というものがあれば、ここからほんの少しだけ先の話のような気もするのだが……
何も書いてないのである。「空無への愛執」と書きながら、その実態というか、それがどんな現れ方をするか、それがどんなふうに人間の罪障になるかなど、いっさい書かない。
これはどういうことだろうか。渋沢が「空無への愛執」につてい何もわかっていないということである。しかし、だからこそ、私はこの詩がおもしろい。わからないこと、ことばにならないこと、ことばにできないことが、今、ここに存在する。それをなんとかことばにするために、わかっていることを書く。書きながら、ことばの運動を励ます。動け、動け、もっと先へと動け、と念じながら、ことばを動かしているようでもある。
考えてみれば、「直列の詩学」のときから、渋沢はただことばを、今、ここから、ここではないどこかへ動かそうとしていたのだと思う。ただ、ことばを動かす。ことばの、ことば自身で動いていく力を引き出す。そういうものを「詩」のなかで再現したかったのだと思う。
何もわかっていないもの--それは「空無」に似ているかもしれない。そこには何もないのではなく、何でもが可能性として存在する。そうしたものへの限りない「愛執」が支部沢にはある、ということだ。
*
「無」については「酒徳頌」に、朔太郎のことばを引用しながら、次のように書いている。
永遠なるものは「無」のみ。自分に有るものももとその「無」のみであるなら、「過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失はなかつた」ということにならないか。かくて彼は「喪心物のやうに空を見上げながら、自分の幸福に満足して、今日も昨日も、ひとりで閑雅な麦酒(ビール)を飲んでる」のである。虚無よ! 雲よ! 人生よ、と、それ自体千切れ雲のような詠嘆の声を挙げながら。
「無」への共感がある。「愛執」までが、共感できる文章を探し出してきたということかもしれない。
「無」は何もないのではない。何もかもがある。何もかもをひとことでいえば「自由」「解放」である。「自己解放」する「場」が「無」という時空間なのである。