詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新川和江『詩の履歴書』

2006-07-18 23:23:58 | 詩集
 新川和江『詩の履歴書』(思潮社)。
 私は詩人の自注というものをあまり読まない。詩人が力を入れて(?)書いた部分と私が感動する部分はしばしばかさならない。詩人が「思想」を託した行と、私が「思想」を感じる行は微妙にずれている。
 このことは「somethig」によせたエッセイの感想でも書いた。同じことを、繰り返して書く。「火のそば、水のそば」は「水」という作品によせたエッセイである。まず、「水」を引用しておく。

泣いているのか 夜更けに台所で
ぽと ぽと と垂れる水滴
陽の目も見ずに
暗い下水道へ流れこまねばならぬ運命を
コップに受けよう 深い大きなバケツにも
おまえはいつだって 今がはじまり
いま在るところが みなもと
どんなに遠くからやってきたとしても

わたしを通ってゆきなさい
わたしはそれで活力を得て一篇の詩を書きます
あしたになったら
ユリの茎のリフトを昇ってごらんなさい
階上には聖なる礼拝堂がある
それとも庭にくるキジバトに飲んでもらって
思いがけない方角の空に飛んで行く?

ああ わたしがときどき流す涙も
ぜひそのようでありたい
萬象のいのちをめぐり
悲しみの淵をほぐし
つねに つねに
天に向って朗らかに立ち昇ってゆく……

 この作品について、新川は次のように書く。

 私は、コップに受けよう、バケツにも、と実際に応急処置をして不仕合わせな運命の水を慰めた。物理的ないたわりだけでなしに、〈おまえはいつだって 今がはじまり/いま在るところが みなもと〉と、言葉をかけてやっている。この二行は、この詩を書くにあたって、一番深く考えた箇所だった。

 だが、私は、その行には感動しなかった。
 新川はこのエッセイのなかで、新川の詩は「現代詩」とはずいぶん違っていると自覚していると書いている。また、「現代詩」に対抗するように書いても来たと書いている。それはそうなのだろうと思うけれど、自慢の2行が私には「現代詩」に見えてしまうのである。
 私が感動したのは、2連目である。「わたしを通ってゆきなさい」の大胆な表現にまず感動する。私は単純に新川が水を飲み、排泄するという行為を思い浮かべ、この単純さがとてもいいと思う。新川の飲んだ水はあるものは汗になり、あるものはおしっこになる。それはもとの水ではない。汚れている。新川の体を清潔にした反作用として汚れている。その汚れがいいのだ。汚れのなかにある反作用から、新川のどんな部分がきれいに洗い清められたかがわかる。
 新川が水を飲むように、ユリも水を飲む。水を地中から吸い上げる。庭に来るキジバトも水を飲む。そう書くとき、新川はユリになり、キジバトになる。その瞬間、新川がユリやキジバトと同じものでできていることを知る。新川は人間であるけれど、人間以外のものでもあるのだ。人間以外のものを肉体のなかに抱え込んでいるのだ。ときにはユリのことばを話し、ユリの見る夢を自分自身の夢として見てしまう。喉の渇いたキジバトになり、真剣に水を飲む。人間の肉体は、いや、新川の肉体はユリという植物にも、キジバトという動物にも共感する力を持っているのだ。新川の肉体には、そういう自然が残っているのだ。そのことに、私は、まず感動する。
 そして、新川がユリになり、キジバトになるとき、新川の肉体からユリとキジバトが離れていく。ことばになってき、新川から離れていく。そのとき、純粋な新川の肉体、一糸まとわぬ裸体の輝きが広がる。その輝きは、ユリになった「水」、キジバトになった「水」の形で輝いているので、私たちは一瞬、それを新川の肉体、新川の裸体とは思わない。けれども、そのユリ、そのキジバトこそが新川の肉体なのだ。純粋な肉体なのだ。

 これに比べれば、新川が自画自賛している2行は肉体ではなく、「頭」である。新川自身が「一番深く考えた箇所」と書いているように、それは肉体が共感したものではなく、頭で「考えた」ものである。ユリやキジバトの行のように、肉体が反応しているわけではない。新川の肉体がユリやキジバトと重なり合ったようには、ここでは新川の肉体は「いま在るところが みなもと」ということばに重なり合わない。「考え」が重なり合っているだけである。



 「考え」を新川は「真理」とも言い換えている。先に引用した自画自賛の文章のあとに、新川はつづけて書いている。

物理的ないたわりだけでなしに、〈おまえはいつだって 今がはじまり/いま在るところが みなもと〉と、言葉をかけてやっている。この二行は、この詩を書くにあたって、一番深く考えた箇所だった。水の運命を考えながら私は、このことを発見した--とその時点では、得意になっていたように思う。
 しかし、ずっとのちになって、必要があって折り折りに読んだ幾冊かの書物で、同じことを、すでにレオナルド・ダビンチが、老子が、良寛が、言っているのを知ったのだった。
 おおかたの真理は、すぐれた先人たちによって、言いつくされているにちがいない。けれども私は、それを実生活の中で、自分の五感を通して体得してゆきたい。

 「真理」は確かに何人もの先人によって語られている。だからこそ「真理」なのであろう。「考え」というものは、つきつめればどうしたってそこへたどりついてしまうしかないものである。だから、それはあらゆる人によって同じように「考え」られてしまうものでもある。頭、思考によって共有されるのが「真理」である。
 「真理」にたどりつくのもことばの重要な仕事ではあるけれど、そうではなく、「真理」ではないものを語ってしまうのもことばの大事な仕事である。水がユリの茎のなかをリフトをのぼると礼拝堂がある、水はキジバトに「飲んでもらって」遠く飛んで行く。こうしたことは「真理」ではない。新川のかってな思い込み、勘違い、誤謬、いわば「思考の汚れ」のようなものであろう。新川にしかできない「思考の汚し方」といえばいいだろうか。だからこそ、そこには新川しかいない。「先人」が入り込む余地がない。
 「五感を通して体得」と新川は書く。その「体得」と書くときの「体」--それこそが私が「肉体」と呼んでいるものだ。
 この詩では、新川はユリとキジバトを「体得」している。新川の体、肉体はユリになり、キジバトになっている。そこがすばらしい。
 私は、たぶん、いつでも作者が得意になって書いた部分とは違う部分に感動していると思う。たぶん私は、新川がいう「先人」たちによって語られた「真理」にはあまり興味がないのだ。そうしたものより、いま目の前にある肉体の感覚が好きなのだと思う。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする