詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

辻井喬「どこへ」

2006-07-07 13:51:17 | 詩集
 辻井喬「どこへ」(「火牛」第五十七冊)は難解な詩である。どこに辻井の「思想」があるのかわからない。そこに書かれていることが、辻井の思想なのか、それとも「現在」の思想、つまり辻井が現在の思想はこのようなものであると判断しているのか、その区別が私にはつきかねる。

いい方へか悪い方へか分からないが
そして意味があるのかどうかも不確かだが
世の中はあちこちへ動いている
そう知っていても僕にはすることがない
にんげんは月に行くことはできても
歴史の外に出ることは不可能

 「にんげんは(略)/歴史の外に出ることは不可能」というのは辻井の繰り返し書いてきた思想だと思う。歴史の外へ出ることはできないから歴史を書く。それが辻井のことばの基本的なあり方だと思う。そして、こうした考え方は辻井独特のものではなく、何人もの人が言っていることだとも思う。人間存在は歴史的存在である、と。とりわけ難解な思想ではないのかもしれないが、この詩のなかでは、とても難解である。この詩には、た人が(読者が)一読してわかる歴史がないからではない。(もちろん、それもある。「歴史」がこの詩のなかで定義されていなから、そのことばの意味が不明確である、という部分もある。)そうではなく、「歴史の外に出ることは不可能」ということばが肉体を持っていないからである。肉体を感じさせないことばだからである。
 きのう書いた小松弘愛の「ひせくる」と比較するとわかりやすい。「ひせくる」は肉体で共有するしかないことばであった。何とも形容のしようのない痛み、自分ではどうすることもできない痛み、誰かに大丈夫だよ、治るよとでも言ってもらわないことには安心できないような痛みと、そのときの泣き叫び。それを理解するのは、肉体の記憶である。肉体である。
 ところが「歴史の外に出ることは不可能」ということばは肉体では理解できない。頭でしか理解できない。そこには肉体が除去され、頭だけが純粋に存在している。こういうことばは数学的な詩にはぴったりくるだろうけれど、そこに書かれているものが数学的言語ではなく、肉体的な言語である場合は、うまくかみあわない。「歴史の外に出ることは不可能」ということばが、この詩に書かれている塵芥、潮の満ち引きによって漂う塵芥のように漂って見えてしまう。
 河口の塵芥が辻井の思惑、肉体とは無関係の法則で漂うように、まるでここに書かれていることがらとは無関係に漂って見えてしまう。

 そして、「歴史の外に出ることは不可能」ということばが、この詩では他の行とは無関係であると気がついたときに、ふいに、これこそが辻井の思想なのだと私に迫ってくるように感じた。
 これは矛盾だろうか。たぶん矛盾だ。だからこそ、そこに何かがある。簡単なことばではつかみとれないもの、表面的ではないもの、肉体のように「内部」を隠したものがあると感じ、その内部が迫ってくるのを感じる。

考えてみれば満ちてくるものがないのは
いいことなのだ 心安いことなのだ
だから僕は面倒な本は読まない
娯楽番組以外のテレビは観ない
いまのような時代には思想をもたないこと

 ここに書かれている「思想」とは、やはり頭でつくりだされたことばの体系、人間の行動を律していくようなものであろう。人間の行動を導く指針のようなことばを指しているのだろう。しかし、思想は、たとえばプラトンやカント、ハイデガーのことばだけではない。「考えてみれば満ちてくるものがないのは/いいことなのだ 心安いことなのだ/だから僕は面倒な本は読まない/娯楽番組以外のテレビは観ない」こそ肉体にしみついた思想というものだろう。こうしたことばは人間をどこかへ導いては行かない。というか、そのことばを実践すれば、人間が、社会が、世界がどうなふうに幸福になるかというような展望をもたらしてはくれない。
 辻井から見れば、現在は、そういう人間でいっぱいということなのだろう。辻井は、しかし、そういう人間として生きることはできない。そんなふうにして生きている人間に託して「僕」を描いて見せるが、それでは満足できない。

努力せずにいつの間にかそうなれたのは
たぶん両親の背中を見ていたからだ
けっして自分の頭で考えることをせず
つねに大勢に順応して多数の側につき
無事に定年まで勤めあげた模範的な一生
その時々には不満も口惜しさもあったろうに
そう思った時 意外にも胸に満ちてきたのは
深く親に感謝する気持
民主的な家庭を作っていくこころざし
さて これから僕はどこへ行こうか

 「さて これから僕はどこへ行こうか」。最後のこの行こそが、辻井の肉体にしみついた思想、肉体が発する思想である。「深く親に感謝する気持」と書きながら、親の生きた生活の場ではなく、「どこへ行こうか」と書いてしまうところに辻井の思想がある。
 このとき「どこへ」は場所を指さない。「月」だとか火という宇宙ではもちろんないし、新宿だとか渋谷だとかという具体的な街でもない。足手歩いて行ける場所ではない。肉体を移動させることで「行った」と言えるような場所ではない。
 「にんげんは/歴史の外に出ることは不可能」ということばが導く「場」である。「歴史」である。どんな「歴史」をつくり、どんな「歴史」を次の時代に引き渡すか。「どこへ」は場所ではなく、どんな行動へと言い換えないことには理解できない。
 どんな行動へと考えるとき、そして、そこにはじめて肉体が登場する。どんな行動も肉体抜きではありえない。肉体を動かし、他者に触れ合う。そして自分の動きを修正する。そのとき、辻井が起こそうとしている行動は、この詩に書かれているような、たとえば「僕は面倒な本は読まない/娯楽番組以外のテレビは観ない」ではない。親の生き方とも違う。もしそうであるなら、「どこへ」とは書かない。そういう行動があることを知っていて、そこへではなく「どこへ」と書く。「僕は面倒な本は読まない/娯楽番組以外のテレビは観ない」への批判として「どこへ」と書く。
 だが、「どこへ」なのか。どんな行動なのか。批判としてしか書かれていない。抽象的である。難解なのはそのためである。ある意味では、難解であることが、辻井の思想そのものといえるかもしれない。今まで見てきた肉体の思想から肉体を引き剥がす、今までの肉体の思想とは違ったものを目指す、平易にはならないこと、それが辻井の肉体としての思想かもしれない。
コメント (3)
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