ヒューゴ・ウィリアムズ詩選(熊谷ユリヤ編訳)(「現代詩手帖」7月号)。5篇のみ紹介されているが、どれもおもしろい。「大人になったら」は特に刺激的だ。
9日に取り上げた高階の作品の対極にある。ブラック・ユーモアでもライト・バースでもない。「過剰」な描写といえば、ヒューゴ・ウィリアムズも「過剰」かもしれない。具体的すぎるかもしれない。ところが、それはことばの表面上のことにすぎなくて、むしろ、もっともっと描写を読みたい、具体的に描写してほしいという気持ちがしてくる。
なぜだろうか。
「ぼくって、イヤラシイ年よりになるんでしょうか!」に批評がある。自己批判がある。高階の作品においては、母親と子どもは一心同体だった。母親の行動は、そのまま子どもの行動だった。ところが、ヒューゴ・ウィリアムズの作品では「大人」と「ぼく」は重なり合わない。彼が書いている「大人」には絶対になれない、彼と「大人」の間には偉大なる「欠落」がある、ということをヒューゴ・ウィリアムズは知っている。
自分は、ここに書いている「大人」にはなれない。そうしたことを知っていて、「あしの悪い大人」「イヤラシイ大人」を描く。これは、差別だろうか。こうしたことを書くことは差別を助長することになるだろうか。「あしが悪い」大人は「悪い病気」にかかっていて、「イヤラシイ」ことをする、というふうに、足の悪い人を差別することになるだろうか。
けっしてそうはならないだろう。
ヒューゴ・ウィリアムズは彼とは絶対に重ならない「大人」が、重なり合わない理由として「大人」自身の命を持っていることを知っているからだ。「ぼく」と「大人」はそれぞれ命を持っている。独自の絶対的な命を持っているからこそ「他者」なのである。他者はけっして重なり合わない。それは違いがあるから重なり合わないのではなく、対等だから重なる必要がない。補いあうものがない。補いあう必要がない。だからこそ、「違い」を「違い」として認識できる。
ヒューゴ・ウィリアムズはこの作品に書かれている「大人=他者」にはなれない。なれないと認識しながら「なりたい」と書く。ここには矛盾がある。そして矛盾のあるところには必ず「思想」がある。その「思想」とは……。
「自分で考えたい」。ここに、この詩の主張があり、思想がある。自分のことばで書く、自分のことばで考える。「自分のことば」で考えたことが「思想」なのである。
*
高階の「金魚の昼寝」には、次の文があった。
「さみしい」「やさしい」。それは考えたことではない。感じたことだ。高階のことばが「感じた」ことを書いているなら、感情を思想にしているのなら、ヒューゴ・ウィリアムズは考えたことを書いている、考えたことを思想にしようと勤めているといえるかもしれない。
しかし、こうした私の文章には反論があるだろうと思う。ヒューゴ・ウィリアムズも「感じる」ことを重視している、と。そしてその具体例として、たとえば「祈り」の次の行をあげるだろう。
「楽しい」「苦しい」「どう感じるか」。そこにあるのは「感情」ではないか。それはたしかに感情である。しかし、それにつづけてヒューゴ・ウィリアムズはそうしたことを「神よ、誰よりもあなたに教えてほしい」と訴えかける。
私はヒューゴ・ウィリアムズの信仰心を知らない。彼がどう考え、どう感じているのか知らない。しかし、この行から受ける印象を言えば、彼は神に呼びかける形を借りて、自分自身に問いかけているとしか見えない。神はけっして答えない。自分で、自分のことばを探し、それに答えを出すしかない。答えを「感じる」のではなく、「誰も教えてくれない」(神も教えてくれない)から、考えるしかないのだ。
神がもし存在するとしたら、それは絶対的な「他者」だろう。神以外にも絶対的な他者は存在する。それは自分自身も誰かにとっては絶対的他者であるということでもある。絶対的他者であるということは、どういうことなのか。それを考える。それがヒューゴ・ウィリアムズの「思想」だ。
神さま、ぼく、あしが悪い大人になりたいです。
自分がだれなのかも思いだせないまま、
あしをひきずって、通りを歩いてみたいです。
悪い病気にかかって、こしに手を当てて
ちょっと前かがみになって、うめいてみたいです。
9日に取り上げた高階の作品の対極にある。ブラック・ユーモアでもライト・バースでもない。「過剰」な描写といえば、ヒューゴ・ウィリアムズも「過剰」かもしれない。具体的すぎるかもしれない。ところが、それはことばの表面上のことにすぎなくて、むしろ、もっともっと描写を読みたい、具体的に描写してほしいという気持ちがしてくる。
なぜだろうか。
もしも小さな男の子が道をたずねたらその子の
あしの間を触ろうと手を伸ばしてみたいです。
ぼくって、イヤラシイ年よりになるんでしょうか!
そんなヤツは、どんな目に会わせればいいですか?
「ぼくって、イヤラシイ年よりになるんでしょうか!」に批評がある。自己批判がある。高階の作品においては、母親と子どもは一心同体だった。母親の行動は、そのまま子どもの行動だった。ところが、ヒューゴ・ウィリアムズの作品では「大人」と「ぼく」は重なり合わない。彼が書いている「大人」には絶対になれない、彼と「大人」の間には偉大なる「欠落」がある、ということをヒューゴ・ウィリアムズは知っている。
自分は、ここに書いている「大人」にはなれない。そうしたことを知っていて、「あしの悪い大人」「イヤラシイ大人」を描く。これは、差別だろうか。こうしたことを書くことは差別を助長することになるだろうか。「あしが悪い」大人は「悪い病気」にかかっていて、「イヤラシイ」ことをする、というふうに、足の悪い人を差別することになるだろうか。
けっしてそうはならないだろう。
ヒューゴ・ウィリアムズは彼とは絶対に重ならない「大人」が、重なり合わない理由として「大人」自身の命を持っていることを知っているからだ。「ぼく」と「大人」はそれぞれ命を持っている。独自の絶対的な命を持っているからこそ「他者」なのである。他者はけっして重なり合わない。それは違いがあるから重なり合わないのではなく、対等だから重なる必要がない。補いあうものがない。補いあう必要がない。だからこそ、「違い」を「違い」として認識できる。
ヒューゴ・ウィリアムズはこの作品に書かれている「大人=他者」にはなれない。なれないと認識しながら「なりたい」と書く。ここには矛盾がある。そして矛盾のあるところには必ず「思想」がある。その「思想」とは……。
大人になったら、細い金ぞくのぼうをペニスに
差し込まれたいです。なぜそんな目に合うのか、
だれも教えてくれないんです。どうしてなのかは、
自分で考えたいんです!
「自分で考えたい」。ここに、この詩の主張があり、思想がある。自分のことばで書く、自分のことばで考える。「自分のことば」で考えたことが「思想」なのである。
*
高階の「金魚の昼寝」には、次の文があった。
まっ白な画用紙に赤い金魚がひとついる絵ができました。それだけでは少しさみしいので、頭の下に枕を描いてあげました。お母さんは、やさしいね、と頭をなでてくれました。
「さみしい」「やさしい」。それは考えたことではない。感じたことだ。高階のことばが「感じた」ことを書いているなら、感情を思想にしているのなら、ヒューゴ・ウィリアムズは考えたことを書いている、考えたことを思想にしようと勤めているといえるかもしれない。
しかし、こうした私の文章には反論があるだろうと思う。ヒューゴ・ウィリアムズも「感じる」ことを重視している、と。そしてその具体例として、たとえば「祈り」の次の行をあげるだろう。
もうひとつの人生が楽しいものだったか、
苦しいものだったのか。自分がどう感じるかを、
神よ、誰よりもあなたに教えてほしいのです。
「楽しい」「苦しい」「どう感じるか」。そこにあるのは「感情」ではないか。それはたしかに感情である。しかし、それにつづけてヒューゴ・ウィリアムズはそうしたことを「神よ、誰よりもあなたに教えてほしい」と訴えかける。
私はヒューゴ・ウィリアムズの信仰心を知らない。彼がどう考え、どう感じているのか知らない。しかし、この行から受ける印象を言えば、彼は神に呼びかける形を借りて、自分自身に問いかけているとしか見えない。神はけっして答えない。自分で、自分のことばを探し、それに答えを出すしかない。答えを「感じる」のではなく、「誰も教えてくれない」(神も教えてくれない)から、考えるしかないのだ。
神がもし存在するとしたら、それは絶対的な「他者」だろう。神以外にも絶対的な他者は存在する。それは自分自身も誰かにとっては絶対的他者であるということでもある。絶対的他者であるということは、どういうことなのか。それを考える。それがヒューゴ・ウィリアムズの「思想」だ。