境節『薔薇(ばら)の はなびら』(思潮社)。「手を振る」の書き出しが印象的である。
なぜ、「小さな犯罪の気がする」のか。この8行だけではわからないのに、なぜか、それが切実に感じられる。肉体に迫ってくる。たぶん、人の足跡を面白半分にたどって歩いた記憶があるからだ。人の足跡をたどるときいちばん感じるのは自分の体の動きとその人の体の動きが違うということだ。足跡の続く先を見れば、その足跡がどこへ続いているかわかるはずなのに、何かが納得できない。私の肉体は、その方向を見つめてはいない。先に歩いた人の肉体を見ている。足の動きを見ている。肉体の力の入れ方を見ている。そんなふうに肉体を見ること、他人の肉体を自分の肉体に重ねて、そこに違和感を感じること--それを境は「罪」だと感じている。こころではなく、たぶん、肉体で。ことばで思いつくのは「罪」だが、それは頭で考える「罪」ではなく、肉体で感じる罪である。だから、その「罪」の説明は、ことばではできない。だから、境は説明していない。
肉体で罪を感じたあと、その肉体がどう現実と出会ったかだけを書く。
景色が変わるのは、境が道を進んだからか、それとも他人の足跡をたどったからか。もちろん両方なのだが、他人の足跡をたどるという肉体の動きが視力に作用したために、景色が違って見えるということが、この行には強く含まれている。「びっくりするほど」ということばがそれを明らかにしている。ここでも、ことばはほとんど無意味なくらい単純である。罪を感じたのが肉体だったように、びっくりしているのも肉体なのである。
「びっくり」と感じる肉体が、境の「思想」である。他人の肉体の動きを、自分の肉体でたどるということが「小さな罪」と感じる肉体が、境の「思想」である。他人の肉体の動きをそのままたどることを自分の肉体に対する罪と感じない人もいる。他人の肉体の動きを自分の肉体でなぞってみても、そのとき景色が変わって見えない人もいる。しかし、境はそうすることを「罪」と感じ、そうしたあと景色が違って見える人間なのである。
これは裏返していえば、境は自分の肉体の動きにこだわる人間だということだろう。自分の肉体がどんなふうに動くかということをしっかり感じ取り、その感じを守り通す人間だということだ。自分の肉体が感じたものを信じる人間だということだ。
詩集の中にはそうしたことばが出てくる詩もある。
こうした「からだ」(肉体)が反応したことを、ことばにするのは難しい。境も、とりあえず「からだが反応する」としか書くことができない。この正直さも、とてもいい。「びっくりするほど景色が変って」の「びっくりするほど」と同じ類のことばである。
自分の肉体を信じる境の、不思議な体験。他人の足跡をたどるという体験。それは、境にどんなふうに影響するのか。そこから境はどんなふうにして自分へ還るのか。
「手を振る」の最後の6行。
「手を振る」は別れのあいさつだろう。ここではなく、ここを立ち去る。そういうことを意味する。「どこへ」はわからない。わかるのはここを立ち去るということだけだ。「本当はどこへ行くんだろう」という疑問をとおして、境は自分自身へ還る。手を振るという行為の中へ、ひとまず還る。わかるのは、ここから立ち去るということだけだと確認する。そういう確認に「手を振る」という肉体の動きが重なるところが、境の「思想」のありかたである。
もうひとつ、非常に説明のしにくいことばが登場する詩がある。「流れる」。
この「あやまる」もまたこころの問題ではない。あたま、ことばの問題ではない。そして誰かというのも抽象的な人間ではない。実際に肉体をもった人間である。肉体をもった人間の前で、境自身のからだを折り曲げ、あやまる。その動きを境は問題にしている。あやまるとき、ことばはいらない。からだを折り曲げ、その折り曲げかたを人に見せればいい。人はことばよりも、そうした肉体の動きをこそ信じる。
この詩では、境は、自分の肉体を誰に対して折り曲げていいのかわからないと、肉体の問題として語っている。
このことは、この詩に描かれている「怒り」について見るとき、より明らかになる。境は「怒り」をことばとして書いていない。やはり肉体として書いている。枯れ葉を踏む。冬なのに薄いコートで歩き続ける……。
そうしたものをからだ、肉体で受け止めることができない。怒る人に対して、とりあえずあやまってとりなすという生活の知恵があるが、そういうときの謝罪はことばではなく、やはりからだ、肉体である。そういうことができない。どんなからだの使い方があるのかわからない。それが境の苦悩である。
「思想」は精神のことばではない。「思想」は肉体のなかにとけこんだ知恵である。知恵としての肉体がどこかに消えてしまった。境はそのことを、肉体で感じている。そして、その肉体の悲しみを、詩にしている。
*
詩集のタイトルにもなっている「薔薇の はなびら」は、境の肉体の思想、知恵としての肉体というものについて考えるとき、とても暗示的な作品である。境は瀬永清子に詩集のタイトルで相談した。「薔薇の はなびら」にしたい、と話した。
なぜ書けないのか。境はからだで、肉体で「トゲ」と向き合っているからである。頭、ことば、精神で向き合っているのではない。触ったら痛い、というからだの現実があり、そこから境は踏み出さない。頭、ことばでなら、たしたに花びらではなくトゲに描けるだろう。しかし、からだがとげに対してとれる振る舞いは痛いしかないだろう。
これは境の限界だろうか。そうではなく、私には、非常に大きな可能性に見える。知恵としての肉体、からだ。そこには頭、ことば、精神ではつかみきれないやさしさ、おだやかな他人との出会い方というものがある。
誰の足あとかわからぬ足あとを
たどって歩く
ぬかるみの中を わたしの足より少し
大きな足あとが続く
まだ誰も通らない
しめった道を
こんなことをしたのは はじめてで
なにか小さな犯罪の気がする
なぜ、「小さな犯罪の気がする」のか。この8行だけではわからないのに、なぜか、それが切実に感じられる。肉体に迫ってくる。たぶん、人の足跡を面白半分にたどって歩いた記憶があるからだ。人の足跡をたどるときいちばん感じるのは自分の体の動きとその人の体の動きが違うということだ。足跡の続く先を見れば、その足跡がどこへ続いているかわかるはずなのに、何かが納得できない。私の肉体は、その方向を見つめてはいない。先に歩いた人の肉体を見ている。足の動きを見ている。肉体の力の入れ方を見ている。そんなふうに肉体を見ること、他人の肉体を自分の肉体に重ねて、そこに違和感を感じること--それを境は「罪」だと感じている。こころではなく、たぶん、肉体で。ことばで思いつくのは「罪」だが、それは頭で考える「罪」ではなく、肉体で感じる罪である。だから、その「罪」の説明は、ことばではできない。だから、境は説明していない。
肉体で罪を感じたあと、その肉体がどう現実と出会ったかだけを書く。
びっくりするほど景色が変って
すでに町に出た
景色が変わるのは、境が道を進んだからか、それとも他人の足跡をたどったからか。もちろん両方なのだが、他人の足跡をたどるという肉体の動きが視力に作用したために、景色が違って見えるということが、この行には強く含まれている。「びっくりするほど」ということばがそれを明らかにしている。ここでも、ことばはほとんど無意味なくらい単純である。罪を感じたのが肉体だったように、びっくりしているのも肉体なのである。
「びっくり」と感じる肉体が、境の「思想」である。他人の肉体の動きを、自分の肉体でたどるということが「小さな罪」と感じる肉体が、境の「思想」である。他人の肉体の動きをそのままたどることを自分の肉体に対する罪と感じない人もいる。他人の肉体の動きを自分の肉体でなぞってみても、そのとき景色が変わって見えない人もいる。しかし、境はそうすることを「罪」と感じ、そうしたあと景色が違って見える人間なのである。
これは裏返していえば、境は自分の肉体の動きにこだわる人間だということだろう。自分の肉体がどんなふうに動くかということをしっかり感じ取り、その感じを守り通す人間だということだ。自分の肉体が感じたものを信じる人間だということだ。
詩集の中にはそうしたことばが出てくる詩もある。
みごとな街路樹に
からだが反応する (「けむり」)
なにか ひろびろとしたものに
出会うと からだが反応する (「ひかり」)
こうした「からだ」(肉体)が反応したことを、ことばにするのは難しい。境も、とりあえず「からだが反応する」としか書くことができない。この正直さも、とてもいい。「びっくりするほど景色が変って」の「びっくりするほど」と同じ類のことばである。
自分の肉体を信じる境の、不思議な体験。他人の足跡をたどるという体験。それは、境にどんなふうに影響するのか。そこから境はどんなふうにして自分へ還るのか。
「手を振る」の最後の6行。
こどもが二人遊んでいる
その表情がおとなびて
「どこへ行くの」と聞く
「どこへ行けばいい?」と聞きたいが
少し笑って手を振る
本当はどこへ行くんだろう
「手を振る」は別れのあいさつだろう。ここではなく、ここを立ち去る。そういうことを意味する。「どこへ」はわからない。わかるのはここを立ち去るということだけだ。「本当はどこへ行くんだろう」という疑問をとおして、境は自分自身へ還る。手を振るという行為の中へ、ひとまず還る。わかるのは、ここから立ち去るということだけだと確認する。そういう確認に「手を振る」という肉体の動きが重なるところが、境の「思想」のありかたである。
もうひとつ、非常に説明のしにくいことばが登場する詩がある。「流れる」。
ゆれ動く風景を
からだを傾けて見続ける
記憶が途(と)切れて
どうしようも無いとしつきから
立ち上がる
地下にひそんでいたような気持を
投げ捨てる
激動の時代に遭遇してしまったことを
誰にあやまればいいのか
この「あやまる」もまたこころの問題ではない。あたま、ことばの問題ではない。そして誰かというのも抽象的な人間ではない。実際に肉体をもった人間である。肉体をもった人間の前で、境自身のからだを折り曲げ、あやまる。その動きを境は問題にしている。あやまるとき、ことばはいらない。からだを折り曲げ、その折り曲げかたを人に見せればいい。人はことばよりも、そうした肉体の動きをこそ信じる。
この詩では、境は、自分の肉体を誰に対して折り曲げていいのかわからないと、肉体の問題として語っている。
このことは、この詩に描かれている「怒り」について見るとき、より明らかになる。境は「怒り」をことばとして書いていない。やはり肉体として書いている。枯れ葉を踏む。冬なのに薄いコートで歩き続ける……。
そうしたものをからだ、肉体で受け止めることができない。怒る人に対して、とりあえずあやまってとりなすという生活の知恵があるが、そういうときの謝罪はことばではなく、やはりからだ、肉体である。そういうことができない。どんなからだの使い方があるのかわからない。それが境の苦悩である。
「思想」は精神のことばではない。「思想」は肉体のなかにとけこんだ知恵である。知恵としての肉体がどこかに消えてしまった。境はそのことを、肉体で感じている。そして、その肉体の悲しみを、詩にしている。
*
詩集のタイトルにもなっている「薔薇の はなびら」は、境の肉体の思想、知恵としての肉体というものについて考えるとき、とても暗示的な作品である。境は瀬永清子に詩集のタイトルで相談した。「薔薇の はなびら」にしたい、と話した。
瀬永さんは
「バラのトゲならともかく はなびらでは」
と即座に言われた
それから数日してハガキが届いた
「バラのトゲなら まだしも」と
瀬永清子さんが よく使っていたトゲ
まだ わたしには
「薔薇のトゲ」は
書けない
なぜ書けないのか。境はからだで、肉体で「トゲ」と向き合っているからである。頭、ことば、精神で向き合っているのではない。触ったら痛い、というからだの現実があり、そこから境は踏み出さない。頭、ことばでなら、たしたに花びらではなくトゲに描けるだろう。しかし、からだがとげに対してとれる振る舞いは痛いしかないだろう。
これは境の限界だろうか。そうではなく、私には、非常に大きな可能性に見える。知恵としての肉体、からだ。そこには頭、ことば、精神ではつかみきれないやさしさ、おだやかな他人との出会い方というものがある。