詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松浦寿輝「川の光」

2006-07-26 22:29:57 | 詩集
 読売新聞夕刊に7月25日から松浦寿輝の連載小説「川の光」が始まった。
 新聞小説の文体とは思えないゆったりした文章である。特に次の部分。

 そんなことはできないに決まっているけれど、もしあなたがまったく足音を立てずに歩けるのであれば、土手の急坂から川原に下りて、水ぎわの近くまで行ってみるといいと思う。
 どんなに足音を忍ばせても、靴で草むらをかき分けるときに葉と葉がすれ合う音だの、踏みしめる小石がほかの石に触れて軋(きし)む音だの、その他どんなかすかな音も、何ひとつ立てることなくそこまで歩いてゆくなどというのは、たぶん不可能に違いない。でも、もし仮にそんな芸当があなたに可能であるのなら、どうか抜き足差し足で水ぎわまで近寄って、かがみこみ、足元の草の葉を、そおっと、そおっと、かき分けてみてほしい。

 「できない」「不可能」と書きながら、その不可能なことを細部にこだわり丁寧に書く。「靴で草むらをかき分けるときに葉と葉がすれ合う音」「踏みしめる小石がほかの石に触れて軋む音」など、なぜ、不可能と知っていて、その不可能に付随することを書くのか。それこそが松浦の書きたいことだからだ。
 小説にはストーリーがある。読者はこの話はどうなるのだろうと思って読む。松浦がストーリーを描かないとは言わないが、ストーリーよりも、ストーリーをかき消してゆく細部をこそ書きたい作家なのだと思う。草むらを音を立てずに歩くことなどできないのはだれにもわかっている。わかっていて、では、それではそのときの「音」とはどんなものか、そのことを書きたいのである。
 わかっていて、しかし、深く認識していないことを、丁寧に描く。それに何か意味があるのかどうかわからない。しかし、そうした細部を丁寧に描くということが松浦は好きなのだ。こういう作者が嗜好があからさまに出た文章が私は大好きだ。
 嗜好は思考そのもの、思想そのものだからである。
*
 嗜好が思考として出てきた部分が先の引用部分にある。

土手の急坂から川原に下りて

 なんでもない文に見えるかもしれない。でも私はこの文は松浦にしか書けないと思う。普通の作家は「急坂」とは書かないだろう。「どんなに足音を忍ばせても」以下の「急坂」を補足した文章を読むと、その「坂」は「道」ではないことが明らかだ。道ではない斜面を「坂」と書く作家がほかにいるだろうか。「土手の急斜面」「土手の崖」とか、そんなふうに描写するのが普通の文章だろう。しかし松浦は「急坂」と書く。松浦は「坂」が大好きなのだ。坂に対する嗜好、それが松浦の思考、思想だ。
 坂を進むときは平地を進むときとは意識の動きが違う。
 ときにはまっすぐではなくジグザグに歩く。歩行距離は伸びるが足への負担は少なく、またジグザグに歩くことで、まっすぐに歩くときには見えなかったものが必然的に見えてくる。目に入ってくる。それを描写するとき、今までとは違った世界が見えてくる。ジグザグにゆっくり歩く、そして視界に入ってくるもの、まっすぐに歩くことでは見落としてしまうものを、ことばとして定着させる。それが松浦のやりたいことなのだと思う。その志向(嗜好)が思考として凝縮しているのが「坂」ということばだ。

 「坂」に、松浦の「詩」がある。


コメント
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